知財論趣

高橋是清/点描

筆者:弁理士 石井 正

高橋是清遺稿集
 高橋是清は、明治、大正、昭和と三代にわたり我が国政治経済の中心にあって活躍した偉大なる人物ですが、彼はまた我が国特許制度、商標制度の創設の際の中心役でもあったこともよく知られています。是清が明治10年代に特許制度、商標制度制定のために起案責任者として努力した頃の自筆文書一切は、昭和11年に悲運の凶弾に倒れた後、御遺族から当時の特許庁に寄贈され、これが高橋是清遺稿集全七巻として取りまとめられて特許庁の閲覧室で公開されています。

リーガル・マインド
 この是清自筆の文書を読んでいくと、さまざまな感慨を抱くのですが、その一つが是清のまことに深く豊かな法学センス=リーガルマインドなのです。端正な毛筆字による詳細な立法趣旨書や、当時の農商務省内部や外務省からの反対意見に対する説明文書を読んでいくと、あのダルマさんという愛称をもって親しまれ、どちらかと言えばややアバウトと想像される政治家のイメージとは大きく異なります。その文書からは、まことに精緻にして実力ある法律専門家、立法責任者の姿を思い浮かべることができます。

是清の法学教育
 驚くべきことは、是清はこれと言った法学教育は全く受けたことがないことです。10代の頃に米国に留学した経験はありましたが、その留学は法学教育とはほとんど無縁のもので、半分、奴隷のような扱いを受けたと自伝でも語っています。帰国後、英語に強いというところからフルベッキやモーレー達のような法学者であって御雇外国人でもある彼らの近くにいて、通訳を兼ねて一緒に仕事をしたことから法学の常識を学んだ程度なのです。その法学のいわば常識程度の知識を修得したうえで、自らの勉強を出発点として、特許そして商標の制度設計をすることがどれほど困難なことかは誰でも想像できます。ところが当時の是清の文書を読むと、その内容は極めて深く、明晰に追求したもので、しかも幅広い法律体系の理解を前提にして、はじめて書き得る精緻な内容なのです。体系的な法学教育を一切受けることなく、これほどの法学思考ができる、ということに驚かされます。

米欧特許事情調査
 明晰にして豊かなリーガル・マインドを有した是清ですが、さすがに特許や商標の実際の手続や実務となれば、法の常識やリーガル・マインドさらには西欧の法律書からの知識によって対応するということも困難です。明治政府もそれを理解していましたから、明治18年1月初代専売特許所長高橋是清(32歳)に対して米・英・仏・独の特許商標事情を視察する出張を命じたのでした。各国特許庁を視察して、特許や商標の制度とその実務を詳しく調査するという趣旨でした。この視察出張は是清に大きな影響を与えたのですが、是清だけではなしに、我が国の特許や商標の実務界にも大きな影響を与えました。その一つが弁理士制度です。

フィラデルフィアの特許事務所
 ワシントンにおける米国特許庁(現在では特許商標庁ですが、当時は特許庁でした)における視察を完了した後、特許庁関係者の強い勧めもあって、是清はフィラデルフィアの特許弁護士アール氏を訪ねました。彼の特許事務所を訪ねて、その事務所の文献整備の状況に是清は驚き、特許事務所というものの意義もまた理解したのでした。是清はアール弁護士から、特許弁護士の重要な職務として発明者の考えた発明を如何に明確に文書にしていくか、その最も困難なところは特許権の範囲を明確に主張するところにあることを教示されたのでした。是清は極めて直感の優れた人物でしたから、アール弁護士と会い、その事務所を視察し、話を聞くことで、特許弁護士そして弁理士というものの意義、重要性を即座に理解したのでした。是清は帰国後、特許や商標に係る専門家としての弁理士の重要性を機会ある毎に関係者に話し、有能な者が弁理士の道に進むことを勧めていきます。我が国において弁理士という専門的職業が社会に定着していく契機となったのでした。