知財論趣

音楽家の経済学

筆者:弁理士 石井 正

オーケストラの場合
 クラシック音楽を好む人は多いようで、筆者もその一人です。定期演奏会にはこの30年間、毎月通っています。そうした演奏会で音楽を聴きつつ、その経済を考えることがありますが、冷静にオーケストラ、すなわち楽団の経済を考えると、それはまことに厳しい状況にあることだろうとみています。通常、楽団には100人程度のメンバーが所属し、そこに広報などの裏方の仕事をする人が30人くらいはいるでしょう。演奏に係わる方、裏方に係わる方のそれぞれの人件費は普通のサラリーマンとほぼ同じ程度ですから、全体の人件費はおよそ想像することができるでしょう。ところが演奏会のチケット収入を考えると、S席が7500円、最も安いC席が3000円としても、普通のコンサート・ホールでは、1回の演奏会の収入はせいぜい1000万円に届くか届かないか程度です。一方で経費は大きいのです。指揮者や独奏者に支払う出演料が数十万円から数百万円、会場使用料が150万円、広告費負担が大きく、また現代音楽の場合には著作権使用料も支払わなければなりません。結局、演奏会のチケット収入が楽団に貢献するのはその半分程度ということになるでしょう。そうなると演奏会を年間に200回行っても楽団メンバーの人件費を賄うことは無理だということとなります。ところが実際の演奏会は年間にせいぜい100回程度なのです。

苦境を乗り切るために
 演奏会の収入だけでは到底、運営していくことができないため、楽団は何らかの公的な支援か、あるいは大スポンサーを探すこととなります。そもそも欧州の音楽の歴史を見ても、貴族達の支援があって演奏家の生活が成り立っていたことを考えれば、そうした大スポンサーに頼るということも自然なことなのかもしれません。しかし楽団にも様々あって、著名な歴史ある高水準の楽団ならば、スポンサーも支援するでしょうが、その逆であれば、容易ではありません。米国の地方都市にある楽団は、80年代から90年代にその活動を停止したのが多くあります。1986年に活動停止したオークランド管弦楽団もその一つです。他方、サンディエゴ交響楽団の場合は、一度倒産の危機に瀕したのですが、IT企業の経営者からの130億円の寄付によって再建されたのです。米国の楽団の音楽監督の役割の一つは大口寄付者に対する高水準のサービスであると言われますが、それも無理もないことなのでしょう。日本の多くの楽団も国や地方公共団体からの補助金、賛助企業からの寄付金等によってなんとか維持されているのが現実です。

天才は別の次元
 音楽の世界の不思議なところは、楽団が厳しい経済状況に直面し、楽団メンバーがせいぜい普通のサラリーマン程度の所得しか得られないのに対して、天才と評価される著名指揮者や演奏家は全く別の次元の所得を得ているという現実なのです。しかもそれは20世紀に入ってから顕著となり、またそうした天才的音楽家を各楽団に仲介するエージェントによって現実化したのです。
 クラシック音楽の場合、世界のトップクラス、すなわち約100名程の天才はそのほとんどが音楽マネジメント会社CAMI社に所属し、巨額な報酬を得ることができます。このCAMI(コロンビア・アーティスト・マネジメント)社は、2015年に亡くなったロナルド・ウイルフォードが作った国際的音楽マネジメント会社で、知る人ぞ知るまさに特別な会社です。ウイルフォードは長くクラシック音楽の世界で、特にコンサートに関わる世界トップクラスの音楽家のエージェントをしてきました。彼の仕事はコンサートに出演するピアニストやバイオリニスト、それに指揮者や歌手等の出演交渉や出演料の交渉でしたが、彼のすごさは、世界の真の天才と交渉しながら、すべてと代理人契約をしていったことなのです。(詳しくはNORMAN LEBRECHT “THE MAESTRO MYTH : GREAT CONDUCTORS IN PURSUIT OF POWER”邦訳はノーマン・レブレヒト「巨匠神話」文芸春秋社、1996年)

ロストロポービッチもカラヤンも
 ウイルフォードが仲介した天才の名前を列記すれば、亡き天才チェリストのロストロポービッチ、ピアニストのポリーニ、ミケランジェリ、歌手のホセ・カレーラス、指揮者ではカラヤンをトップにムーティ、アバード等々。もちろん小澤征爾もそうでした。小澤が世界の小澤になり得たのはウイルフォードの傘の下に入ったからだと言われています。世界の天才的音楽家はすべてウイルフォードとエージェント契約をし、ウイルフォードは世界各地のコンサートホールやオーケストラと契約交渉をしているのです。彼は世界のどこのオーケストラに対しても交渉のポジションが圧倒的に強く、彼の交渉条件を断るオーケストラはありません。もしも断るのであれば、ウイルフォードは次は誰も紹介しないからです。その結果、CAMIに所属する指揮者の出演料は巨額なものとなっていきました。1回の公演でおよそ5万ドル程度、年間契約した場合には100万ドルを超すのが普通となります。亡きカラヤンの場合、1回の公演で30万ドルという驚くような高額な契約もあります。他のCAMIに所属する指揮者や演奏家もウイルフォードの交渉によって巨額の出演料を獲得することとなったのです。
 オーケストラのメンバーの年間収入は決して多くありません。天才指揮者が一回の演奏会で得る収入が、オーケストラのメンバーの1年間の収入と同じかそれ以上となる皮肉な状況となるわけです。天才に対する報酬の難しい面であり、特殊な経済学となりますね。

(平成29年11月1日記)