知財論趣

幕府官僚としての川路聖謨

筆者:弁理士 石井 正

国家運営と官僚
 国の政策決定と業務を円滑にすすめるためには、有能な人間集団が求められます。いわゆる役人、あるいは官僚と称される人たちがそれですが、批判の対象になることも多いようです。日本の国の経済活動の規模をGDPでみた場合、このところ総額はほぼ500兆円から550兆円の規模で推移していますが、これに対して国家予算規模がおよそ100兆円ですから、いかに公的部門の重要性が大きいか理解できますし、そうであれば公的部門の組織、人物の選別、育成の仕組みは当然、注目されます。時には見直すべきであるという厳しい意見が頻出するのも無理もないのかもしれません。官僚への道を開き、登用する仕組みとして最もよく知られているのが、科挙の制度です。随に始まり、歴代中国王朝が採用してきた官僚の選出制度で、まことに厳格な試験制度でした。中国、韓国では今でもこの科挙の制度が少し残っているようです。なにしろ科挙により選ばれた者=進士は日月も動かすとまで言われ、それが役人になれば、昇官発財と言い、一族すべてが巨額な冨を得ると言う仕組みです。
 それでは江戸幕府においてはどのようにしていたのでしょうか。

江戸幕府における役人登用制度
 江戸時代は農民に対して苛斂誅求ともいえる程、過酷な年貢を強制し、役人はその手先であったと言う見方があります。だからしばしば映画では、江戸時代の役人は悪代官等とされ、悪人のカテゴリーとして描くわけです。だが江戸時代の役人はそれほどに悪人であり、過酷な年貢の徴収手先者であったのでしょうか。もしもそうした年貢の徴収者が多数いて苛斂誅求行政をしていたならば、幕末に日本に来た英国総領事オールコックが、江戸を離れて旅行をした際に、ヨーロッパの農村には見ることのできないのんびりと満ち足りた生活をする農民たちの姿を見出すことなどできないはずです。
 史実を見ていくと、江戸時代の役人あるいは官僚はかなり公正で、忠実に職務に励んだとみられています。興味深いことはその登用の制度であって、中国のような科挙という制度は導入せず、かなり柔軟に登用していることです。地位の低い人物を実務の評価を通して少しずつ上位の地位に就けていくことが当たり前のように行われていたようです。その典型的な例を川路聖謨に見出すことができます。江戸時代の幕府官僚と言えば、その登用システムには普通は門閥が決定的に影響すると思われるのですが、川路はそれこそ一介の小普請組から普請奉行、勘定奉行にまで登用されていったのです。これは驚くべきことで、現代でいえば、単なる事務見習いからはじまり、最終的には財務大臣までの高い地位に登用されたこととなります。

川路聖謨
 川路聖謨は、豊後日田の代官所属吏を父として生まれ、12歳のとき、幕府小普請組川路三佐衛門の養子となります。代官所属吏とは武士というよりは農民といってよく、養子となった小普請組とは、幕府官僚の末端のクラスであり、それが出発点であったのです。小普請組とは江戸幕府の旗本・ご家人の組織の一つなのですが、何の役職もない、いわゆる無役の者が所属するもので、ここから幕府の役人になることは極めて困難なことでした。
 彼は幕府の要人が江戸城に登営する前を狙い、その屋敷に出かけていき面接を願うと言う就職運動をします。これを逢対と言います。多くの逢対希望者が列をなし、それで面接ができるかと言えば、ほとんど不可能に近いことだったのです。聖謨はそれでも根気よく根回しを続け、ようやく勘定所の登用試験である筆算吟味の試験を受けることができました。これに合格し、文政元年支配勘定出役に採用されました。18歳、就職運動を始めて3年目のことでした。手当は年5両、これは現在の金銭価値からすればおよそ50万円程度と言ってよく、最下級の地位であり、薄給と言ってよいでしょう。
 ここから聖謨の出世が始まるのです。文政4年、支配勘定および評定所留役助に補せられ、6年には勘定・評定所留役に任ぜられます。この留役は将軍に謁見可能ないわゆる御目見以上の格となります。聖謨の実務能力は高く評価され、しかも性格は誠実であるところから、老中をトップとする幕府役職者からの評価は極めて高いものがあったようです。それはその後の役職ポストをみていくと明らかになります。寺社奉行吟味物調役、勘定組頭格、西丸普請御用、佐渡奉行、普請奉行、奈良奉行、大坂町奉行を経て、ついに嘉永5年には勘定奉行となり500石を賜るまでになったのです。門閥として誇れるものはまったくなく、単なる支配勘定出役と言う事務職員からスタートしたにすぎないのですが、ともかく役人・官僚としての実務能力が圧倒的に秀でていたのです。幕府の人事システムはそうした官僚をきちんと評価し登用していくのです。その川路聖謨が歴史のなかで高く評価されるのは、幕末の外交でした。

ゴンチャロフの評価
 1853年嘉永6年にペリーが浦賀に来航し、日本中が大騒ぎになるなか、幕府はペリーとの交渉と外交政策議論に直面しますが、その渦中にいた幕府官僚の一人が川路聖謨でした。彼は明確な開国派であり、上からも下からも信頼されていました。その年、ロシアのプチャーチン率いる艦隊が長崎に来航した時には、勘定奉行川路聖謨が全権となってロシア側と交渉し、日露条約の締結へ向けて努力を重ねていったのです。その努力の姿と実績は日本側関係者が揃って高く評価するのですが、その評価は日本側だけにとどまらなかったのです。
 プチャーチンとともに来航してきて、川路と交渉したゴンチャロフは次のように言います。
 「川路を私達はみな気に入っていた。川路は非常に聡明であった。彼は私たちを反ばくする巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、それでもこの人を尊敬しないわけにはいかなかった.彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、慧眼と、練達を顕していた。明知はどこに行っても同じである」。(「日本渡航記」岩波文庫)
 こうした人物を、江戸幕府は的確に評価し、登用していったこと、そして日本の官僚制度はこうした江戸幕府の組織文化を色濃く受け継いでいることを考えておく必要があるでしょう。