知財論趣

方丈の庵

筆者:弁理士 石井 正

帰去来の辞
 日本人の思考・価値観の多くは中国の影響を受けていますが、その一つに隠棲を尊ぶところがあります。陶淵明が官職を捨てて故郷に帰り、隠棲した生き方は日本人に大きな影響を与えたのです。また白楽天が左遷された後、都を離れ隠棲した姿も、中国そして日本のとりわけ知識人に大きな影響を与えました。陶淵明も白楽天もそれまでの栄職を反映した大きな住居から、一転して、まことに小規模な住居=庵にその住まいを替えました。その狭い庵での一日、静かに友人と談じ、草花を愛でて、季節の動きとともにする穏やかな生活を楽しんだのです。そうした都から離れた庵に隠棲する姿に、西行、鴨長明、芭蕉、良寛は憧れ、ただ憧れるだけではなしに、実際にそうした生活をしたのです。今でも驚かされることは、そうした庵のまことに小規模で質素であったことです。

西行、鴨長明の庵
 それでは、西行や鴨長明が生活した庵は実際にはどのようなものでしょうか。西行が出家して住まいした庵は、熊本県立大学大岡敏昭名誉教授によれば、一間四方(約3メートル四方)か方丈(3.1メートル四方)というものでした。せいぜい今の六畳程度の広さで、壁は柴で、東側に半窓があり、南側に竹編みの開き戸があるだけのまことに小さい庵でした。壁が柴で、しかも屋根も柴を編んだものですから、強い雨が降れば雨漏りはするでしょうし、冬の強い風が吹けば、寒さはことのほか厳しいものであったことでしょう。
 方丈記を記した鴨長明の庵は、その名の通り方丈の大きさですから、西行の庵の大きさとほぼ等しいものでした。鴨長明の方丈の庵は、壁が松葉で作られたもので、西行と同じように東側に小さな窓を設け、そこに文机を置き、南側に扉を設け、外に竹の簀の子を作り、そこで休めるようにしています。松葉で作った壁がどれほどの風と雨を防ぐことができたのか不明ですが、冬の寒さは厳しいものがあったことでしょう。

芭蕉と良寛
 江戸深川にあった芭蕉の庵は、芭蕉庵として広く知られていますが、その大きさは四畳半の部屋と三畳の台所だけでした。今で言う1DKとなるわけですが、壁は土壁で屋根は茅、台所は土間で、部屋は板敷きという質素なものでした。強い雨風の時には、まことに孤独な気持ちとなったことでしょう。そこで次のような句を詠んでいます。

   野分して盥(たらひ)に雨をきく夜かな   芭蕉 

 それでは良寛の庵はどうでしょう。国上山の中腹に建てた良寛の五合庵は六畳の板間と三畳の納戸からなるもので、壁は土壁で屋根は茅ですから、芭蕉庵とよく似たものでした。越後の冬の山は想像を超す量の雪に見舞われます。良寛はそうした冬をこの庵で、孤独に過ごしたのです。

方丈の庵
 西行も、鴨長明も、そして芭蕉も良寛も、みな示し合わせたように10平米程の、まさに方丈の庵でした。質素な生活を尊び、自然のなかに穏やかに生きていくことを望む価値観は、日本人のどこかに共通して存在しているようですね。そうした価値観が、中国の陶淵明、白楽天の隠棲の姿に反射して、さらに仏教の出家の理念につながった結果が、方丈の庵であったのでしょう。最近、断捨離という言葉が流行っているようです。生活をできるだけ質素、簡素にして、無駄なものを持たない、身の回りのもので使わないものは整理していく姿は、こうした方丈の庵の理念につながるものがあるようです。