知財論趣

著作権と文筆業

筆者:弁理士 石井 正

バルザックの場合
 文章を書いて、それで生活をするということは容易なことではありません。著作権制度が確立されてから、そうしたことも可能となったと言えましょう。
 19世紀フランス文学を代表する者の一人として、バルザックがいます。なにしろ速筆で、人間観察力はあり、その文章は分かり易くて、味があるので、当時も今も多くの読者を確保してきています。彼は小説家であるとともに、浪費家であり事業失敗家でもありました。逆に言えば浪費し、事業に失敗することしばしばであるために、その資金を得る目的で小説を書いたともいえます。そのためもあってバルザックは収入の基本となる印税制度についても詳しく、注文も多かったようです。東京大学の宮下先生は、「19世紀フランスにおける、著作権・印税システムと作家の関係について」を2000年から3年間の科研費の研究テーマとしていますが、その中心にバルザックがいることは当然のことでした。この時代に著作権と小説家との関係が成立したと言ってもよいでしょう。

滝沢馬琴の年収
 滝沢馬琴はあの壮大な大河小説ともいえる「南総里見八犬伝」の著者であり、また江戸時代において文章を書いて生活をした文筆家の代表例とも言えます。江戸の社会は想像以上に文化的であって、まだ著作権制度がない時代であったにもかかわらず、出版元は滝沢馬琴にきちんと著者印税を支払っていました。そうした馬琴の印税を中心とした年収は、多い年で100両、少ない年で50両はありました。1両は現在でいうとおよそ10万円から20万円程度とみることができ、普通の職人の年間の収入といえば、およそ10両から20両程度の時代でしたから、かなりの収入であったわけです。日本に著作権制度のない時代に、馬琴が文筆家として世を渡ることができたことは、特筆すべきことでしょう。

漱石の場合
 夏目漱石は明治40年に、大学の教員を辞めて朝日新聞社に入社します。帝国大学教授の社会的な地位が現在とは大きく異なり、尊敬の対象となっていた時代であるだけに、大決断であったに違いありません。彼は朝日新聞社に入社するにあたり、入社の辞を残していますが、そこでは大学の教員をしていても年間せいぜい800円の収入であって、楽な生活はできないと言っています。それでは漱石に対して、朝日新聞社はどの程度の処遇をしたかと言えば、月に200円、それに賞与をプラスしたのです。これだけでも大学からの処遇に比べて優遇と言えるのですが、それに印税が加わります。漱石は西洋における著作権・印税制度をよく理解していました。彼には著作物の印税が加わったのです。これが大きなものとなったのです。

豊かな小説家の時代
 そうした時代を経て、日本の文芸を生み出す者の経済に最も大きな影響を与えたのが、昭和初期の円本時代の到来でした。改造社が現代日本文学全集を1冊1円で大々的に売り出したところ、購買予約が殺到し、25万部の予約が入ったのです。これは著作権料として考えるとまことにその額は大きく、1冊1円ですから、25万円の売上額に対して10%の著作権料は2万5000円となります。実際に、永井荷風の日記「断腸亭日乗」の昭和3年1月25日には改造社と春陽堂から印税が5万円支払われたと書かれています。当時は大学卒の新入社員の初任給が50円程度でしたから、その額の大きさも想像できますね。文筆業というものが社会的地位を得、経済的処遇も豊かになったのは、まさにこの円本の時代からでした。
 著作権制度が小説家に代表される文筆業にどれほど大きく貢献したか、改めて認識させられます。著作権制度には賛否さまざまなところもありますが、少なくとも小説家に代表される文筆家には決定的に重要な制度となっていったことが理解できます。