知財論趣

グーテンベルグの印刷技術

筆者:弁理士 石井 正

近代社会の発展に貢献した印刷技術
 これまで生み出された多くの大発明のなかで、もっとも人類の発達に貢献した発明は何かと問われると、その答えはさまざまですね。火の利用に始まり、石器を創り出し、土器や車輪など、これまで人類は多くの大発明を生み出してきたわけです。それぞれが大変貴重な発明で、それが人類の発達に大きな貢献をしています。これが最重要な発明であると決めにくいものです。
 近代特許制度が15世紀のヴェネツィアに始まったことを考えて、15世紀以降の時代において、社会発展に大きく貢献した発明は何かと問われた場合、対象はかなり絞られてきます。とりわけ社会発展に貢献した大発明となれば、グーテンベルグによる活版印刷技術の発明は多くの方が指摘することでしょう。印刷技術は、書籍の印刷・大量出版という点で、近代社会の発展に大きな影響を与えたのです。活版印刷技術により、1000部や2000部の書籍が低価格で安く印刷発行できるようになりました。それまでの人が一字ずつ手書きして作成した高価な写本とは大きな違いであったのです。

活版印刷技術の内容
 グーテンベルグの活版印刷技術は、安く大量の書籍を人々に提供することを可能としたことの重要な意義は理解されているのですが、その割には技術内容は知られていません。ここでじっくりとグーテンベルグの活版印刷技術の内容を考えてみることとしましょう。印刷技術は現代でいうシステム技術であって、いくつかのポイントとなる中核技術が発明され、それらが総合的に全体の技術システムを構成しています。活字の製造、プレス、油性インキがその中核技術と言えるでしょう。
[活字の鋳造]
 まず活版印刷という以上、活字の製作が重要です。まず金属小片に凸字の文字を彫り込みます。これはかなり手間のかかる作業で、これを父型=patrixと称し、次にこの凸型の金属文字を銀からなる金属片に圧接することで母型=matrix文字を作ります。この母型文字は当然に凹字になります。次は大量の活字鋳造です。グーテンベルグの活版印刷技術の中核とも言える発明がこの活字鋳造部分なのです。これはハンド・モールドと称され、両端が開いた中空の細長い箱に片方から凹字のアルファベットを印刻した金属製の母型=matrixを挿入します。空いた方の端部から溶かした金属を注ぎ、金属が冷えるとそのまま鋳造活字ができます。溶かした金属は、鉛、錫、アンチモンからなる合金ですが、技術的には簡単なことではなく、この合金の成分比率も重要でしたし、ハンド・モールドはとりわけ重要な発明で、欧州の印刷職人達は、ハンド・モールドの発明一つをとって、グーテンベルグを賞賛するのです。なにしろアルファベットを印刻した字母については、その印刻の深さが重要で、これが揃っていないと、印刷するときの活字の山の高さが不揃いになるという問題を生じます。しかも大量に鋳造しなければなりません。それがハンド・モールドを使用して実現したのです。その背景にはグーテンベルグの父親が大司教座貨幣鋳造所に関係していたこと、このためグーテンベルグは金細工であるとか、鋳造ということに習熟していたことがあったのかもしれません。
[インクとプレス]
 鋳造して製作した大量の活字を並べて版を作り、そこにインクを加えるのですが、インクには苦労したようです。並んだ活字の表面に薄くインクが付着し、それが印刷する紙の方へ移ることが求められるわけですが、適度の付着力、色、粘度等々の特性が必要となります。グーテンベルグが見出したのは一種の油性インクで、これは当時のフランドルの画家たちが顔料を亜麻仁油で溶いて使用していた油性絵の具を参考としたようなのです。さていよいよ印刷するというときには、プレスを使用しますが、これもグーテンベルグの発想のようです。ハンド・モールドにより均一に製造した鋳造活字であっても、それを並べて版を作ると、どうしてもその表面の高さは不揃いになります。この活字の字面の高さを如何にして揃えるか、グーテンベルグはさまざまに工夫をするのですが、結局は強力なプレスによって、紙を活字面に対して押し付けることで解決したのです。このプレス機は、欧州各国にあったブドウ搾り機やオリーブ搾り機を参考としたのです。
[文字フォント]
 全体としての工夫もさることながら、微細な部分に関する工夫も相当のものでした。たとえばアルファベットの文字の場合、Iという文字はWと比べると、その文字幅は3分の1しかありません。同じ幅にするとかえって読みにくいし、見た目のバランスも悪いのです。そこで文字毎に活字の幅を変えていきます。活字の鋳造も大変ですし、当然に1行分の幅が少しずつ異なるので、これに対応できるような箱の幅を伸縮できるように工夫しているのです。なにより各文字の形をバランスよく作り、全体としての印刷の美しさを実現しようとしたのです。今、見てもグーテンベルグの印刷した書籍はまことに美しいと言わざるを得ません。

印刷技術が与えた影響
 グーテンベルグの活版印刷術の確立はその後、欧州の文化や宗教、それに経済にもそして知的財産制度にも多くの影響を与えました。簡単に大量の印刷が可能となったことから、聖書を個人が手にして読むことが可能となり、それまでの教会で耳から聖書の言葉を理解していたスタイルが一変していきます。宗教改革への大きな梃子となったのです。普通の人が、書籍を購入し、保有する文化が作り上げられていったのです。その結果、著者、印刷者、出版社、書店という概念が広まっていきました。欧州における文化革命は、グーテンベルグにより扉を開かれたと言っても過言でないでしょう。
 他方、印刷技術は知的財産の歴史にも大きな影響を与えたのです。16世紀半ば、ヴェネツィアではドイツにおいて活版印刷術を習得した職人に特許権を与えて招聘していますし、活版印刷のための活字鋳造の際の字母の文字フォントに関しても権利を与えています。こうした印刷技術の発明に関しての知的財産だけではありません、さらに重要な影響が印刷技術によってもたらされたのです。それは著作権制度です。英国では、17世紀に入ると印刷出版業者が著作権を主張し始めます。もちろん現在の著作権とは随分異なり、印刷出版業者保護のための制度で、印刷の版を作る費用は高額で馬鹿にならないため、同一書籍は他の業者は印刷しないというルールを業者間でつくり、過当競争を防止した。これが著作権制度の萌芽となったのです。  この著作権の歴史は、本欄においていずれ詳しくご紹介することとしましょう。