知財論趣

本歌取りと著作権

筆者:弁理士 石井 正

本歌取り
 和歌には、ご存知のように本歌取りという手法がある。元の歌を本歌として、この本歌の一部を取りつつ、そこから連想してまた新たな趣の歌の表現をしようとする。新古今和歌集のなかの「駒とめて袖うちはらふかげもなし 佐野のわたりの雪のゆふぐれ」という有名な歌がある。これが万葉集からの本歌取りであることは知る人はよく知っている。万葉集のなかにある「苦しくも降りくる雨か三輪が崎 狭野の渡りに家もあらなくに」が本歌である。

本歌取りの面白さ
 本歌取りにおいては、本歌のよさをよく了解していて、その趣を別の題材に新たに結びつけて楽しむ。新しく歌を作った者は当然に本歌を知っているし、周囲の者も本歌を知っている。しかしあえて作者は本歌が何かは言わない。周囲の者も本歌が何であるかはただちに知るが、それは言わない。お互いに本歌をよく理解し、その本歌の趣をまた新たにどのように表現しようとしたか、そこにどのような工夫があったか、それを楽しむ。本歌を知っていながら、それには触れず、言わない。それがゆかしい振る舞いであるという。お互いが知識を共有し、それをあからさまにはしないで楽しみ、知識を共有することと創作するということを同時に成り立たせているこの面白さ。

夏目漱石の場合
 夏目漱石の俳句に、「叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉」 がある。ところが江戸時代の太田南畝の句に、「叩かれて蚊を吐く昼の木魚かな」 がある。
 これら二つの句を比べてみればすぐわかるように、ほとんど同じである。ただ漱石が「昼の蚊を吐く」としているのに対して、南畝は「蚊を吐く昼の」としている違いに過ぎない。もちろん漱石は南畝の句を知っていた。好きな句であったに違いない。好きなだけにそこに自身の工夫を少し付け加えてみたい、何か触ってみたい、同じ趣で少しだけ異なった表現ができないか、と思ったのではないか。

本歌取りと著作権問題
 この本歌取りも、著作権という視点から考えると、なかなかややこしいこととなる。著作権制度をご存知であるならば、こうした元の歌の表現を一部利用して、歌を創作するという場合、そこには制限があることは容易に気がつくはずである。著作権制度では翻案権とか、一次著作、二次著作とかさまざまに最初の著作物に関わる権利と、そこから派生的に生まれる著作物とその権利について制度対応している。ただ本歌取りが生まれた時代には、著作権制度などは存在していなかった。そこにはただ歌を楽しむ人々の良識だけが無言のルールとして機能していただけである。

藤原定家のルール
 定家は「詠歌大概」のなかで、本歌取りの許容されるルールとして次のような基準を提示している。
 本歌と句の置き場所を変えないで用いる場合、二句未満
 本歌と句の置き場所を変える場合、二句+3、4字まで
 著名歌人の秀句は除き、枕詞、序詞など初二句を、本歌そのまま用いるのは許容
 この定家のルールを実際の本歌取りに適用してみると、興味深い。定家自身の著名な歌に、「ひとり寝る山鳥の尾のしだり尾に 霜おきまよふ床の月影」 がある。これは柿本人麻呂の、「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む」 を本歌としたものである。この場合、「山鳥の尾のしだり尾」という長い句がそのまま使われているが、これは二句未満とみてよいのだろうか。しかも「ひとり寝る」と「ひとりかも寝む」でも共通しているわけである。

本居宣長の価値観
 日本文化には、自ら考えたことや創作したものについて、それを多くの人々に分け与えていくことを望ましいこととみる価値観が脈々と存在してきたようである。そうであれば本歌取りも格別に忌避するものではなく、むしろ本歌の創作者も本歌取りの創作者もそれぞれ楽しむという許容度の広さがある。それを実感したのが、本居宣長の次の考えを目にした時である。 「よきことは、いかにもいかにも世に広まるこそよけれ。ひめかくして、あまねく人に知らせず、己が私物にせむとするは、いとこころぎたなきわざなり。」

 著作権制度は、著作物の保護に関してかなり細目にまで踏み込みルール化しているわけであるが、それは現実にはかなり硬直的な制度として理解されることが多い。本歌取りや本居宣長の価値観が日本文化の底流にあることを考慮に入れた、より弾力的な著作権制度というものをあらためて考え直していく時期かもしれない。