知財論趣

知財政策の転換

筆者:弁理士 石井 正

知的財産基本法とプロパテント政策
 2002年に成立した知的財産基本法にもとづき、わが国では知的財産の創出と活用を国、地方公共団体、大学、企業が協力して推進する基本方針が定められている。そこに読み取れることは、プロパテント=特許重視政策であることは確かである。米国では1980年代にプロパテント政策に転換し、日本でも90年代から2000年代に米国の政策を追いかける形でプロパテント政策を推進してきたが、知的財産基本法によって最終的にその政策が確定したといってよい。
 このプロパテント政策の逆に、特許に対して消極的あるいは否定的なアンチパテント政策もあった。欧州と米国のこれまでの2世紀の歴史をみていくと、プロパテント政策とアンチパテント政策が循環的に交代してきた興味深い事実がある。

19世紀のプロパテント政策
 19世紀初めの頃、欧州各国は英国の産業革命とフランス革命から大きな影響を受け、それまでの体制を見直し、新技術、新産業を導入し改革を進める必要に迫られた。
 欧州各国が特許制度を導入するのは19世紀の初めの頃であった。プロシアは1815年に特許法「特許付与に関する布告」を制定したし、オランダも1809年に特許法を制定し、さらに1817年にその内容を大きく変えた特許法を制定した。スペインもまた1811年に、フランス特許法の影響を受けた特許法を制定したし、産業などほとんどなかったロシアですら1812年に特許を付与するようになった。
 興味深いことはこれらの国に例外なく輸入特許制度があったことだ。この輸入特許とは、他国においてすでに知られている発明であっても、自国ではいまだ実施されていないような場合、その発明を自国で初めて実施する場合には特許を付与するというものであった。常識として考えている発明と特許というものではなく、他国にある新技術を自国に導入するための産業政策の一つとして輸入特許を与えるというものであった。
 ともあれ欧州各国は1800年頃から1850年頃まではプロパテントの時代にあった。19世紀のプロパテント政策と言ってよい。

英国におけるアンチパテント時代
 それが大きく変わっていくのが19世紀半ばの頃であった。英国の特許制度はやや特異なもので、特許をとるには10を超す役所を回らなければならないし、審査はしないので、すべては裁判所で争わなければならなかった。ディッケンズの「貧しき特許発明家の物語」では、発明家は苦労を重ねて多額のお金を費やして役所を回り、特許を取得するが、その特許からは何の利益も生み出すことはできなかったというストーリーであった。
 この小説が世に出た1850年、英国議会では特許特別委員会が開催され、特許制度の是非が議論された。論客マカフィーは特許制度の問題点を激しく非難し、制度廃止を求めた。特許権という独占権の問題点、裁判所での判断のぶれ、発明者に大きな負担を求める不合理な手続制度等々。特許制度廃止論者は毎年のように議会でそれを主張した。
 英国だけではない。欧州各国は、特許制度について見直すようになった。外国技術を導入するために外国人にも特許を与えたが、実際には外国人は市場支配力としての特許は活用したが、技術は移転しないではないかという批判が多かった。その典型例がオランダで、1867年についに特許制度廃止法案を可決した。欧州各国は1840年頃から1880年頃までアンチパテントの時代であったと言える。

ウイーン特許国際会議が転換点
 そうしたアンチパテントの時代を大きく変える転換期が来る。1873年、ウイーン万国博覧会が開催されたが、出品された新技術製品の特許保護が大きな問題となった。このため急遽、米国政府のすすめでオーストリア政府はウイーンで特許国際会議を開催することとした。
 欧州各国から政府関係者以外に弁護士、学者、企業関係者などが集まり、望ましい特許制度について議論が行なわれた。会議では当初、特許制度について否定的な意見が多かったが、米国の強いリードのもと、議論を重ねるうちにむしろ特許制度を肯定する意見が大勢をしめるようになり、そうであれば特許制度のどの部分を改善するべきか議論が集中していった。会議の最後には決議がなされ、各国の採用するべき特許制度の内容について明らかにされた。この決議の内容がその後の国際的特許条約であるパリ条約に結実していくのであった。この1880年頃以降が第2次プロパテントの時代であり、電気と自動車の新技術時代でもあった。

大不況からアンチパンテント時代へ
 この第2次プロパテント時代もニューヨーク証券取引所の大暴落に始まる大不況によってアンチパテントへと180度政策転換してしまう。独占に対しての厳しい批判は特許にまで及び、特許権を利用した市場支配に対しては独占禁止法違反というルールが米国で確立した。米国ではこの時代、特許庁において審査の結果、特許となっても裁判所でその権利の有効性を判断されるとしばしば特許無効となることがあった。
 なにしろ最高裁判所判事が、米国において有効な特許というものは、最高裁判所に来るまでの間の特許のことを言うとまで発言する程であった。要するに特許の持つ独占的機能に批判が集中した時代であり、アンチパテントの時代であった。

米国のプロパテント政策
 米国のアンチパテントの時代は、1980年を境に大きくプロパテントの時代へと転換していった。低下しつつあった国際競争力を知的財産をもって立て直しをする米国の政策転換であった。
 国の資金により研究された成果を特許にした場合に、その特許権を特定企業の利用に供することを可能としたバイドール法の制定、コンピュータソフトウエアの著作権による保護、生物に対して特許保護を可能とした最高裁判決(チャクラバティ判決)、司法省反トラスト局の特許ライセンス契約における拘束条項に関する運用変更、関税法337条による知的財産違反物品の水際措置、知的財産の国際保護に関する2国間交渉、多国間交渉等々、一挙に知的財産保護重視へと政策の舵は切り換えられていった。
 こうした米国の政策転換は、各国の知的財産政策にも強い影響を与え、ソフトウエアの保護、バイオテクノロジーの保護では各国とも米国に揃えた保護の水準へと切り換えていったし、保護の内容もTRIPS協定により国際的に規定された枠内に揃えられたものとなっていった。

プロパテント政策とアンチパテント政策の交代サイクル
 過去を振り返ってみれば、およそ40年から50年という期間ずつで特許を重視する政策の時代とその逆に特許をやや批判的に取り扱う時代が交代してきたことが理解できる。
 考えてみれば、特許あるいは広くは知的財産というものは新たな知識や情報に対して一定期間とはいえ排他的独占権を付与するわけで、かなり人工的な法制度であることは確かである。それだけにそれぞれの時代の産業や技術の状況によって、その政策を大きく変えていくこと、その時期にはその政策の妥当性が議論の対象となることは避けられないこととも言えよう。