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「公然実施」の証拠を決め手として日本製鉄の中国特許 を全面無効にした中国特許庁審判部の決定

 

 世界的な自動車産業の発展に伴い、自動車の骨格を支える高強度鋼板の技術競争が一層激化する中、日中韓の鉄鋼大手が対峙する特許紛争が展開されました。2024年7月3日、日本製鉄株式会社(以下「日本製鉄」)[i]が保有する自動車用鋼板に関する特許(特許番号:ZL201280016850.X、以下「本件特許」)について、中国国家知識産権局は、全クレームに対して特許無効との判断を下しました。

 本件は、中国における知的財産実務において「公然実施による公開(中国語では「使用公開」)」[ii]の証拠の評価基準を明確に示した象徴的な事例とされており、損害賠償額の総額は1億元(約20億円)近くであり、特許の市場的影響も大きいことから、「2024年度特許無効審判十大事案」の一つに選出されました。

 

1.本件特許の概要

 本件特許は、熱間プレス成形によって製造される高強度部材に関するもので、耐食性向上のための特定のAl-Fe合金めっき層を形成する技術が保護対象となっています。本件特許発明は、鉄鋼製造、鋼材加工、自動車などの重要な産業が関与するホットプレス成形プロセスにおいて、コーティングが割れやすく、耐食性に影響を与えるという業界の問題を解決することを目的としています。

 本件特許のクレーム1~12のうち、クレーム1のみが独立形式であり、その他のクレームはいずれも、クレーム1を引用する従属クレームです。クレーム1~12の中国語原文については、本件審決(下記「情報元3」)の冒頭の項目「一、案由」に掲載されています。特許無効審判請求ではクレーム1~6の無効が主張され、審決においてもクレーム1~6のみの無効理由を示して本件特許全体が無効であるとされており、クレーム7~12については無効理由は検討されていません。以下、審決において特許無効理由が示されたクレーム1~6の要点を示します。

 独立クレーム1:自動車用高強度部品を製造する方法であって、AlまたはAl合金でめっきされた鋼板を加熱し、熱間プレス成形した後、急冷することによりAl-Fe系金属間化合物を鋼板表面に形成する。

 従属クレーム2:上記クレーム1で得た構造にZnOや他の酸化膜を設ける。

 従属クレーム3および4:ZnO酸化被膜の厚みや結晶構造を限定。

 従属クレーム5:用いられる鋼材の組成比(Al、Fe、その他の元素の比率)や処理温度・速度の詳細を規定。

 従属クレーム6:部品の所定の特性(引っ張り強度、伸び率、耐食性など)を得るための、鋼板の各元素の組成比率の範囲を特定。

 

2.特許無効の請求、審理の争点および当事者の主張

(1)特許無効の請求

 本件特許に対し、2023年9月に中国の企業である育材堂(蘇州)、宝山鋼鉄、凌雲長春のそれぞれが、また同年12月に韓国の企業である株式会社POSCO(以下「POSCO」)が、本件特許の明細書の開示が不十分であること、特許クレームの記載が不明確であること、中国専利法第22条に規定する新規性および創造性(進歩性)の欠如などを理由として、本件特許について合計4件の特許無効を請求しました。

 特許無効請求において宝山鉄鋼は、イタリアで中古のフィアット500を公証人立ち会いのもとで購入して主要部品を分解し、主要部品を中国へ持ち帰って検査を実施しました。その結果、検査した主要部品が特許クレームに示された技術構成と一致することを確認し、特許クレームに記載の技術が出願前から公知であったと主張しました。

(2)中国特許庁における審理

 (i)審理の争点

 2024年3月6日、中国特許庁審判部(中国語では「中国知識産権局復審無効審理部」)は、4件の特許無効請求を併合して、口頭審理を実施しました。当該口頭審理においては特に、宝山鉄鋼が提出した「公然実施による公開に基づく証拠(中国語では「使用公開証拠」)」の証明力がどれほど信頼できるか、という点が審理の中心となりました。

 審判部は、請求人がその証拠の証明力を高度の蓋然性[iii]をもって立証することができ、特許権者が説得力のある反論をしない場合には、その証拠で十分と認められる、という基準を示しました。

 (ii)特許権者の主張

 特許権者である日本製鉄は、車両の保険記録や無効請求人側の技術者の陳述に反論して、車両保険記録にすべての修理が掲載されているわけではなく、車両部品が後に交換された可能性があることなどを指摘し、請求人側の証拠や陳述の証明力に疑問があることを主張して反論しましたが、特許クレームの有効性について説得力ある証拠を提示するには至りませんでした。

 

3.中国特許庁審判部の判断

 中国特許庁審判部は、宝山鉄鋼等が提出した証拠が一貫性と信頼性を備えていると判断し、クレーム1については新規性が、クレーム2〜6について創造性が欠如していると判断し、残りのクレーム7~12については特に審理することなく、特許全体の無効を決定しました。特許無効決定に至る審判部における審理の経緯は以下のとおりです。

(1)審判合議体の証拠評価とその理由

 審判合議体は、以下の理由により、宝山鉄鋼が提出した「公然実施による公開に基づく証拠」として提出された高強度部品は先行技術を構成するものと認定しました。

 (i)宝山鉄鋼が提出した証拠は、購入・解体・輸送・受領・検査の各段階が詳細に記録され、公証記録も完全であると認められることから、これらの証拠群は閉環的証拠チェーンを構成するものと認められる[iv]。また、日本製鉄は、公証内容に異議を唱えなかった。

 (ii)日本製鉄は上記段階の全てで公証されたかどうか疑問であると指摘したが、一般慣行として公証人が付き添い、販売者が輸送責任を持ち、車両の完全性を保持する義務を有するため、車両または部品の改変や交換の機会は制限されており、また、販売者と購入者との間に利害関係がなく、虚偽の証拠や部品のすり替えがあったとも認められない。

 (iii)車両保険情報や整備工場の技術者の証言により、主要構造部品は大事故でない限り同時に交換されることは極めて稀であることが証明され、それに対して特許権者は反証しなかった[v]

 (iv)また、車両の登録日が2009年1月30日であり、これは本件特許の優先日である2011年4月1日より前であるため、宝山鉄鋼により「公然実施による技術公開に基づく証拠」として提出された高強度部品は、先行技術であると認められる。

(2)特許クレームとの対比および無効判定

 審判合議体は、以下の理由により、クレーム1に記載の発明は新規性がなく、クレーム2~6に記載の発明は新規性がないかまたは自明であると認定しました。

 (i)証拠チェーンを構成する検査報告書が真正かつ正確であることは、特許権者側当事者も認めており、検査において測定・観察された高強度部材の組成はクレーム1に規定された構成と高度に一致していることから、クレーム1に記載の熱間プレス成形によって形成されたものである。

 (ii)クレーム2,5,6に記載の付加的特徴はいずれも、「公然実施による公開」に基づく証拠に開示されているか、この種の業界の当業者による一般的選択肢に過ぎず、新規性がないか、創造性を欠いている。

 (iii)クレーム3および4において限定されたZnO酸化被膜の厚みや構造の限定も、「公然実施による公開」に基づく証拠あるいは当業者の技術常識から容易に導かれ、創造性がない。

(3)本件特許の無効決定

 残りのクレーム7~12については特許無効請求において無効の主張がされていなかったことから、審判合議体もこれらのクレームの有効性を検討することなく、本件特許全体の無効を決定しました。

 

4.実務上の留意点

 中国における知的財産実務において「公然実施による公開」に基づく証拠の評価基準を明確に示した象徴的な事例であることから、公知文献によらずに製品の市場流通や実際の使用を通じて一般に知られていることを無効理由の根拠とする場合には、本件審決の内容を精査して、以下の点に留意することが望まれます。

(1)閉環的証拠チェーンの構築の重要性

 「閉環的証拠チェーン」の存在が「公然実施による公開」に基づく証拠の価値を高めたことが、本件審決の最大のポイントであり、このような証拠方式は、今後の実務においても有効な証拠戦略になり得ることを十分認識しておく必要があります。

(2)高度蓋然性判断における証明責任の移転

 本件特許無効審判において、民事訴訟における「高度の蓋然性」の原則が適用されたことから、特許無効請求を行なう請求人としては、立証責任が特許権者に移転されるように、証拠方法により高度の蓋然性をもって特許無効が立証されるような戦略を立てることの重要性を強く認識すべきです。

(3)複数証拠の連携的提示

 本件で採られた、車両保険記録、修理履歴証明(修理業者証言等)、車両登録日、引張強度、表面観察等の物理的試験結果という、異なる形式の証拠群の相互連携によって立証の蓋然性を高める手法は、今後も「公然実施による公開」に基づく証拠により高度の蓋然性をもって特許を無効にする上で鍵となる可能性があります。

(4)市場品の事前調査と、防衛的特許出願戦略の重要性

 特許権を主張する側としては、市場調査による市販製品の使用状況把握を、特許出願戦略の一環として位置付け、特許権を取得しようとする発明が「公然実施による公開」に基づく証拠により特許が無効にされないように、他社の類似製品が市場に出回るまでに早期に出願することが好ましいと言えます。

 また、他社の類似製品が特許出願前に既に市場に出ている場合を想定して、それを証拠として特許無効にされることを回避可能にする趣旨で、類似品には含まれないような、特許発明に特有の技術的特徴を可能な限り詳細に、特許明細書に開示するように留意すべきです。

[i] 旧新日本製鐵と旧住友金属工業が2012年に合併して「新日鉄住金」となり、その後2019年4月1日に「日本製鉄株式会社」に社名変更し、69年ぶりに、戦後の1950年の財閥解体まで存在した「日本製鉄」の名称が復活しました。本件特許(中国特許番号:ZL201280016850.X)の優先日は2011年4月1日ですが、本件特許無効請求の被請求人については、本件特許無効請求の決定が出された時点では、本件特許の特許権者および本件特許無効請求の被請求人は「日本製鉄株式会社」に変更されていることから、本稿では被請求人の表記を「日鉄」に統一しています。

[ii] 「公然実施による公開」:中国語原文における「使用公開」という表現、日本特許法上の「公然実施による公開」に相当するものと判断し、本稿では後者を用いています。

[iii] 民事訴訟における「高度の蓋然性」は、特定の事実が真実であると、通常の人が疑いを差し挟まない程度の確信を得られる心証の程度を指し、概ね70%〜90%以上の心証が「高度の蓋然性」にあたると一般的に解釈されています。

[iv] このように、それぞれ独立した複数の証拠が互いに関連し、全体として完結した事実を構成する証拠群は、閉環的証拠チェーン(Closed-loop Evidence Chain)と呼ばれ、中国の特許無効審判実務では、「公然実施の公開」の立証に必須の要素とされています。

[v] 本件決定では、民事訴訟法における「高度蓋然性」の原則を無効審判に準用し、特許無効請求の請求人側が合理的に説明された証拠により高度な蓋然性をもって特許無効を立証した場合には、証明責任が特許権者に移転される、「証明責任の転換」が適用されています。

[情報元]

1.ジェトロ北京事務所:CHINA IP Newsletter 2025/07/28 (No.646)

「日本製鉄の特許、中国で全面無効に=中韓企業の『公然実施』証拠が決め手に」

 

2.「汽车钢板专利战场起硝烟」中国知的産権局(2025/7/23)

              https://www.iprchn.com/cipnews/news_content.aspx?newsId=143201

 

3.本件特許無効審判決定(中国語原文)

              https://www.cnipa.gov.cn/module/download/downfile.jsp?classid=0&showname=8-%E7%AC%AC567474%E5%8F%B7%E6%97%A0%E6%95%88%E5%86%B3%E5%AE%9A.pdf&filename=b206da59c6e84a5e929cfefda90d1d3a.pdf

[担当]深見特許事務所 野田 久登