知財論趣

電子編集時代の注と索引

筆者:弁理士 石井 正

論文・専門書の基本作法
 論文あるいは専門書を書く時の基本作法の一つに、注と索引があります。脚注は書かれた内容が何らかの引用をしている場合や、説明が必要な場合に入れますし、索引は内容について項目別あるいは人名別に、それらがどこに記述されているかを整理しておくものです。普通、論文や専門書で、相応の水準にあるか否かは、この注と索引がしっかりとしているかどうかも判別の一つとなります。

索引
 索引の場合、それを書いた筆者にはほとんど役に立たないものですが、読者には役に立ちます。読んでから時間が経過し、なにかの必要で特定の場所を探そうなどというときには本当に便利であるし、その必要性を実感します。以前は、この索引を作成するという作業は大変なもので、多くの時間と努力を必要としました。すべての原稿を書いてから、特定の事項や人名などに基づいてそれがどの場所に書かれているかを丹念にメモしていくわけですが、多くはアルバイトや、大学の場合には助手の方々の手を煩わし、それでいてミスは許されないという作業です。それだけにきちんとした索引が作られている書籍というものは、その事実だけで一定の評価が得られたものです。

脚注
 同じことが注にも言えます。脚注であろうと巻末に膨大に用意された注であろうとどちらでもよく、これが豊富にあればあるほど、しっかりした論文、専門書であるという評価につながることは確かです。索引は専門書を書き上げた最後の作業、努力と汗の結晶という印象が残りますが、注の場合にはやや性格が異なります。注の場合には、たった一行の文章にもそれなりの根拠があることを示唆していますし、あるいはニュートンの巨人の肩ではないのですが、先人の知恵と知識に頼って一行の文章が成り立っていることをいみじくも示し、それを誇示するような面もあるわけです。要するに論文や専門書の内容が著者による創作、あるいは単に汗と努力の結果だけのものではなく、その内容の出所を示し、先人の知恵と知識に敬意を表し、その上で 他の研究者による次の研究に接続させようというものなのです。

大佛次郎の「天皇の世紀」
 大仏次郎の著書の一つに「天皇の世紀」があります。これが文庫本になった際に、最終巻の終わりに人名索引が付けられました。この大仏次郎の「天皇の世紀」は幕末から明治の時代までの大河小説というべきか、あるいは歴史小説というべきか、比較的読みやすい好書です。筆者も随分前に読み、それが文庫本17巻になった時にあらためて読み直した記憶があります。興味深いことは、文庫本として再刊したときに、人名索引が新たに巻末に付けられたことで、便利で、重宝するのですが、大変な労力ではなかったかと推察しました。しかしそこには電子の時代が大きな役割を果たしたようで、簡単に索引編集ができたようなのです。

大量の注の氾濫
 それでは注はどうでしょうか。注は論文や専門書の内容に関わるだけにはコンピュータが自動的に作成するというわけにはいきません。確かにそうであって、注はその根拠や引用の関係、あるいは知識の関連性を示し確認しているものですから、著者の知り得る範囲では、脚注の自動作成など論外である、と考えてきました。ところが事情が大分変わりつつあるようです。データベースが整備され、それぞれの文献が相互の関連についての情報をきちんと有するようになると、文書を作成しながら、簡単に注の作成までできるようになり、その結果、注の内容も膨大なものとなるというわけです。  先日、法学関係の国際シンポジウムで会った米国の法学者が冗談交じりに「最近の論文は脚注が各ページの下半分以上もあり、これからはページのほとんどを占めるようになるのではないか、規制が必要ではないか」と言っていたことが思い出されます。文書作成の電子化がここまで影響してきているとも言えましょう。