知財論趣

ジーメンスと職務発明問題

筆者:弁理士 石井 正

職務発明の制度見直し
 先日の新聞報道によれば、知的財産戦略推進本部は職務発明制度について基本的な見直しをする方向であるとのことであった。企業等に雇用されている技術者がその職務中に発明を生み出した場合に、その発明に関する諸権利をどのように調整するかは、なかなか難しい問題である。特に19世紀末の頃からは、発明が大規模組織における開発プロセスから生み出されるようになってくると、この職務発明問題は常にトラブルの原因になっていった。

国ごとに異なる職務発明制度
 国際的なハーモナイゼーションの要請を受けて、各国の特許制度はかなりのところまで揃ってきているが、この職務発明制度については、国ごとにその基本的部分から異なっている。英国、フランスの場合には職務発明に関わる権利は基本的に会社側に帰属するが、米国、ドイツ、日本では逆に発明者に帰属する。それでは米国、ドイツ、日本は同じかと言えば、それぞれかなり異なる。米国では発明者に帰属する権利を、あらかじめ会社と発明者が契約により一定条件のもとに会社へ移転するのが普通である。その契約条件は、契約自由の原則に従い、会社と発明者が自由に決める。ドイツはその条件は自由ではなく、厳密に決められたルールに従わなければならない。日本はその条件は合理的、適正に決めることとなるが最終的には、司法が決定することとなる。今回の新聞報道は、この日本のルールを見直すことについてのものだ。

19世紀末のドイツ特許
 1877年のドイツ帝国特許法の成立にジーメンス(ヴェルナー・フォン・ジーメンス1816-1892)が大きく貢献したことはよく知られている。19世紀半ば、欧州は自由貿易主義の時代で、しかもドイツは英国に遅れて産業革命が進行中であった。先進国英国の新技術を導入するに忙しいその時代、特許はマイナスのイメージで理解されていた。プロイセンでは特許と特権が明確に分けて理解されていないほどであった。だからプロイセンでは厳しい審査によって許された特許権の期間は大多数が5年間以下というような状況であった。

特許制度確立へのジーメンスの努力
 それでも19世紀後半に入り、ドイツの産業と技術が英国に追いつく頃となると、近代的特許法の確立を求める声が徐々に強くなってきた。その中心にジーメンスがいた。彼は1863年に特許法への提言書を、ベルリン商業組合顧問部会の名で、プロイセン商工業公共事業大臣宛に提出し、特許反対の世論のなか、72年にはドイツ技術者連盟(VDI)とともに議会に「特許法改正試案」を提出。さらに73年にはウィーン国際特許会議に出席。翌年74年にはドイツ特許保護連盟を設立して会長に就任している。この連盟は翌年75年には特許法草案を議会に提出している。ジーメンスはみずからの事業経験から特許制度が決定的に重要であること、そして発明の重要性とその発明を生み出す技術者・発明者の重要性を確信し、特許制度に批判的である産業界や政府官僚に対して、説得を続け、提言していった。それだけにドイツにおける発明者評価と特許制度確立への中核的な貢献者であったことは確かである。

職務発明問題に直面したジーメンス
 ところがそのジーメンスが彼の会社の中心的技術者であるへフナ-=アルテネクによる発明に関する権利主張で悩まされるのである。ヘフナー=アルテネクはミュンヘン工科大学(当時は技術学校)を卒業した技術者で経営的センスはないものの天才的とも言える高い能力を有する技術者であった。ジーメンス社には22才の時、1867年に入社。電力分野でも電気通信分野でも多数の重要発明を生み出していった。問題はそれら発明をヘフナーは自分の名前で出願しようとしたことであった。ジーメンスはそれらの要求に説得と年俸の大幅増額で対応した。年俸の大幅増額がどれほどであったか。入社の年に設計室勤務となり月給25ターラー(これは週給換算するとジーメンス社の熟練職工の基準給に相当)。翌年33ターラー、69年には50ターラー、71年には75ターラー。さらに72年からは年俸で1000ターラーへ、そして72年には1200ターラーへと増加していった。

満足しない技術者ヘフナー
 しかしそれでもヘフナーは満足しなかった。特に鼓状電機子の発明はジーメンス社の発展に決定的に影響する重要なものであった。ヘフナーはこの発明を自分のものとして退社したいとする意向を表明した。ジーメンスは必死になってそれをなだめ、説得する。その説得の手紙のなかでジーメンスは、ジーメンス社の利益の3%をヘフナーに提供すると約束するのであった。それは外国特許による報償金を別にしても、年に6000から8000ターラーにもなると説明する。ヘフナーはこうした説得に折れて、結局、ジーメンス社に留まることとなった。この時のヘフナーの論理は現在の職務発明の考え方にかなり通じるものがある。彼はこう言う。
 「私の活動は社内の地位や、多くの実験や道具におおいに援けられていますし、これと似たようなことを個人でやろうとしたら大変な困難に遭遇するだろうことは完全に認めておりますが、同時に、この地位にありさえすれば、誰にでも発明をなしうる可能性が先験的(アプリオリ)に与えられる、というものではないだろうとも確信しています」。

ドイツの職務発明制度
 職務発明問題に悩んだ最初の経営者がジーメンスであった。彼は当初、ドイツ技術者協会の特許制度擁護運動に賛同し、その活動を支えて、結局、ドイツ統一特許法制定の最大の貢献者となったいったのだが、ドイツ技術者協会とは途中で離れてしまう。そして企業家を中心とした特許保護連盟を設立していくのである。その原因の一つが職務発明問題であった。ドイツ技術者協会はもっとも強硬な発明者サイドに立った職務発明制度論支持団体であったためである。最終的に、ドイツは職務中に生まれた発明の権利帰属は発明者へとし、その権利の会社側への移転にあたっては、別途、定めた厳密なルールに従ってその移転条件を決めるようにしたのである。これがドイツ方式なのであるが、この方式を目にする度に、ジーメンスの当時の悩む姿を想像するのである。