知財論趣

蔵書の整理

筆者:弁理士 石井 正

大量の蔵書をどうするか
 本が好きで、書店でこれはと思う本を目にすれば、どうしても手が出て買ってしまう人がいる。新刊本の書店はおろか、古書店にまで足が向くとなると本好きもいよいよ病が重くなる。なにしろ新刊本の書店はいわば河の流れの傍にあるのに対し、古書店はその河の水を貯えたダムの傍にあるようなものであって、この古書店通いが始まると、病は深刻であるというのも当然なのである。 
 書店に通い、本を買うことが楽しみの一つということとなれば、その買った本の管理はどうするか。普通は、購入して読んだ本はそのまま処分してしまうということはない。多くはそのまま手元に置いておく。手元に溜まった大量の本をときには蔵書ともいう。蔵書という程価値の高い本ではない、と謙遜する人も多いが、ともかく手元に置いた本の集積は蔵書として考えていくより他にない。この大量の本の所蔵は、これがなかなか深刻な問題を引き起こす。

まずは書棚を確保
 書棚があればまずは書棚にそうした本を置く。最も望ましい形態であり、人も本もそれを喜ぶ。なにしろ書棚に本を配置するならば、背表紙が見える。これは本を探す場合に重要な要素となる。ところが書棚にも限界がある。どうするか。書棚を増やすか、二重型の書棚にしたりする。書棚がないならばそのまま積み上げておくか、押入れに縄で縛って入れて置く。押し入れに縄で縛る作戦では本の背表紙は見えないという決定的な問題を引き起こす。 
 そこで背表紙はあくまでも見える状態で本を所蔵したいということにこだわった結果の過激な事例では、部屋の床に並べておき、その上を歩くというものがあった。磯田和一の「書斎曼荼羅・本と闘う人々・」のなかで、翻訳家・作家の藤野邦夫氏の書斎が紹介されているが、それがまさに床に本を並べ、その上に厚手の透明ビニールシートを敷いて、歩くというスタイルであった。本を跨いではいけないと教わった世代としては、並べた本の上を歩くなどと言うことは、まことに恐ろしいことであって、それこそ神をも恐れぬ仕業と思えるのである。

筆者の場合は
 筆者もまったく同じ病気であり、書店で本を買う病気は長くかつ深刻であって、その結果は大量の蔵書問題となり、解決困難な問題に直面している。蔵書の量はまだ正確には計測していないのであるが、これは病状を正確に把握することを恐れ、病状を詳細に説明されることをさらに嫌う患者の性向に近いものがあるようで、所蔵する本の量を把握したからといって問題の解決にはならないとも自ら思っている。   
 1万冊を超す大量の蔵書は、これから一体どうなるのだろうか。そのほとんどは雑本であるから、古書店に持っていっても買い取ることなどしないと勝手に思い込んでいる。したがって家人はまことに冷たく、早く捨てろ、処分した方がよいとただ他人事として言うだけである。確かに家人が冷たく言うのも理解できないことはない。1万冊の本の重量を概算で計算するとおよそ5トンにもなる。それを家の2階に置いてあるのだから、一体この先どうするのかと非難するのも無理はない。 
 実際、あの東日本大震災の時には、これら大量の蔵書が書棚から落下、散乱して、大変な苦労をしたことが思い出される。書斎と書庫の本がすべて落下、散乱し、床の上に乱雑に積み上がった。問題はこの散乱した本のためにドアが開かなくなったことだった。緊急でやむを得ず、ドアの下方に10センチ角の穴を開けて、そこから手を差し込んで本をどかして、ようやくドアを開くことに成功した。いまでも5歳の孫が遊びにきて、ドアの穴をみて、これはなにかと尋ねるのだ。余程、奇妙に思えるらしい。

蔵書対策の基本案
 先日、新聞には「蔵書整理の処方せん」という大きなコラムがあった。読めば、同じような問題を抱えている人が多くいることを実感した。そのコラムでは、結局、5つの解決策を提示している。移す、預ける、贈る、売る、捨てる、というのがその提案されている解決策である。あるいは最近はやりの断捨離と共通するのかもしれない。

第1案:移す
 まず「移す」は、どこでもいいからその大量の本を移してしまうというものである。もともと別荘などはないのだから、田舎の実家などに本を移すというわけである。目の前に本は無くなるわけであるから、取りあえず問題は解決する。しかもこの解決策は深遠な意味を感得させる契機となる。そもそもあの大量の本は必要であったのか。本を所有することの哲学的意味を認識すること、これである。移してしまい、1年もたつと、あの大量の本は一体、自分に必要であったのか、しみじみと感じる。人間、所詮は無一物だ、などと深遠な所有の本質を悟る契機となるかもしれない。しかし田舎の実家があればこその話であって、実家はないということとなれば、この解決策は事実上、夢の解決策ということとなる。

第2案:預ける
 「預ける」もこの「移す」と同じ狙いである。ただこの預けるは、意外と費用が掛かる。筆者も一時、検討したのであるが、その費用を考えて止めた。逆に言えば、費用が掛かるだけに大量の本を所有することの本質的意味と限界を早く認識する可能性もある。新聞によれば、蔵書の保管サービスをしている会社の場合、専用のダンボール箱に30冊の本が入り、宅配便の費用は別として、毎月210円必要という。ということは1年間におよそ2500円、10年間で2万5000円ということなり、本1冊あたりでは800円になる。本を10年間所有すると、本の価格の半分くらいは所有のための費用がかかるということとなる。それを実感する時に、そもそも読んだ後の本をいちいち大事に保管していく必要があるのだろうかと考えてしまう。それを家人に言うと、ただちに了解され、だから早く本は処分しなさいと厳しく指導されるということとなる。

第3案:贈る
 「贈る」は、図書館や学校、最近では高齢者のための共同ハウスなどへ蔵書を贈るというものだ。これはうまく需要とマッチすると良い結果となる。ただ気をつけないといけないのは、需要とマッチしないことがしばしばあることだ。筆者の場合、市立図書館が年に一回、古くなった本を極低価格で売る、その売上げを図書館サービスに利用するというバザーを行うため、不要な本を持っている方は寄付して欲しいとの連絡があるため、これをチャンスとばかりに、不要な本を縄でしばって提供させて頂く。ただ残念なことにあの東日本大震災の後、その市立図書館はこのバザーをやめてしまったのである。どうやら震災の被害を受けた図書館の蔵書整理で、それどころではないという理由らしい。

第4案:売る
 「売る」という作戦は、これまでほとんど諦めていた。古書店の店頭で、本を売りにきた客が店主に冷たく引き取りを断られている姿をみていると、本を売るということはまったく期待するべきではないことを感じていたからだ。そもそも古書店の店主というものは昔から無愛想であると決まっている。それでもその古書店で本を購入するときは、店主が無愛想でも我慢ができる。しかし、蔵書を売りにいってあの愛想の悪い態度で断られることを想像すると、絶対に古書店に本を売りに行くようなことはするまいと考えてきた。 
 ところが最近、その認識を変える経験をした。インターネットをみていたら、古い本を買い取るサービスがあるらしいのだ。売りたい本を段ボール箱に詰めて宅急便で送るシステムで、受け取った業者が値付けして、その買い取り額を後日、銀行に振り込むという。先日、だまされたと思って段ボール10箱に不要になった本を詰め込んで、受け取り人払いの宅急便で送ったら、1ヶ月後に2万円を超す金額が銀行の口座に振り込まれていた。本を売るというはじめての経験であった。早速、このお金は東日本大震災の義援金として寄付させて頂いた。

第5案:捨てる
 最後の解決策が「捨てる」で、どうもこれが最善の策のように思えてくる。ただ本を捨てるということは、なかなか精神的にはつらいものがあるもので、その決断をするきっかけが欲しい。最近、その方法に良いものがあることに気付きつつある。イメージスキャナーの活用である。最近のイメージスキャナーは本当に技術内容がよくなってきた。捨てようと考えている本の目次とか、興味のあった頁だけをこのイメージスキャナーでデータ取り込みをしてしまう。こうすると本も捨てやすくなる。データはパソコンに取り込むわけであるが、なにしろパソコンのハードディスクの容量はテラバイトという恐ろしい程の巨大なものだ。いくらでもイメージスキャナーがデータを取り込んでもびくともしない。 
 蔵書の処分に関しては、この目次および数ページだけをイメージスキャナーでデータ取り込みプラス本は捨てる、という方法が、お勧めである。