知財論趣

多言語文化の挑戦

筆者:弁理士 石井 正

ヨーロッパ連合
 2012年のノーベル平和賞をヨーロッパ連合が受賞した。二度の世界大戦の中心の地域であった欧州各国をまとめあげて、平和的な連合体にしたことは、確かに高い評価を受けるだけの意味がある。 
 ノーベル平和賞は受賞したものの、このところ欧州経済が難局を迎えている。政治、経済それぞれの分野の関係者は様々に苦労しているようである。なにしろ欧州は地理的、歴史的、文化的に多様であるにも関わらず、それを欧州連合として統合の努力をし、なかでも通貨はユーロとして統一したのであるから大変である。経済に強い国もあれば弱い国もある。それを統一通貨で揃え、経済システムを事実上、統合したとなると、ひとたび、経済状況が厳しくなるとその運営の難しさが露呈されるのも無理はない。

多言語文化
 欧州が難しいという場合に、文化的な差異・多様性も考えなければならない。文化的な多様性という場合、言語が様々に異なることがその典型である。 
 EU(ヨーロッパ連合)では、その法令は加盟各国の公用語で公布される。その公用語はどれほどあるかと言えば、23言語もある。けっして広くはないあの欧州において、しかもヨーロッパ連合に加盟した国に限定しても23言語もあるとは驚きである。たとえばマルタ語、エストニア語等もその公用語の例である。 
 各国はそれぞれの自国言語を簡単には放棄しない。公布される法令にかぎらず、会議の資料からあらゆる規則等、すべて加盟各国の公用語での使用を求める。そうであれば翻訳から通訳まで大変な負担が生じることとなることは想像できる。 
 ヨーロッパ連合の事務局には、翻訳総局が組織され、そこには翻訳専門職スタッフだけで1200人が働いている。それだけではない。法令にはやはり法律に詳しい専門家が関わらないと大きなミスが発生する可能性が出てくる。そこで法令と言語の両方に詳しい専門家、すなわちLawyer Linguistが指名されている。

欧州特許条約と言語問題
 さて話が少し変わる。欧州特許条約である。これまで欧州特許条約は順調に発展してきて、加盟国は37カ国となっている。しかしこのところ欧州特許条約出願がやや低調という声も聞く。その理由の一つが翻訳問題である。ご存知のとおり、欧州特許条約出願はしばしばバンドリング・パテントとも称される。特許になるまでは一つの言語により、一つの手続と審査で済む。ところが特許になると各国別に翻訳を提出しなければ各国で効力を有しない。バンドリングが外れるというわけである。 
 各国別に翻訳を提出していると、翻訳料金が実に高額になり、13カ国へ出願と言うと、全体で2万ユーロを大きく超える高額な料金となるわけである。これが欧州における特許取得の困難性を高めていることは確かである。 
 この問題を解決するアイデアはこれまで様々に出されてきたが、その一つが欧州連合特許、いわゆるEU特許である。このEU連合では翻訳負担を軽くするための工夫が検討されている。

欧州委員会による翻訳言語規則案
 2010年7月に欧州委員会はEU特許の翻訳言語についての規則(案)を公表した。それによれば特許になるまでは現在の欧州特許条約出願と同じで、特許になった後も各国別の翻訳は提出不要とする。もちろん各国で特許権の効力は発生する。 
 それぞれの国で特許権侵害が発生し、侵害に対して訴訟を提起する際に、被疑侵害者や裁判所の求めがあった場合に、はじめて翻訳は提出することとなる。この方式であれば、翻訳文の提出機会は大きく減り、全体としてのコストは低減できる。問題は翻訳文を求めてきた各国の態度であろう。いつ差し止め請求があるか分からないから、翻訳文が必要であるとしてきたこれまでの方針をどこまで変えることができるかである。

グーグル社との機械翻翻訳協定
 他方、欧州特許庁は米国グーグル社とコンピュータ翻訳の協力協定を締結したとの報道があった。欧州特許庁が発行する特許明細書等の公報について、英語を中心として、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、スエーデン語との間でコンピュータ翻訳を可能とするというもので、これをグーグル社が行うというものである。2014年末までには、これに加えて欧州特許条約加盟国の28言語すべてと、これに併せて中国語、日本語、韓国語、ロシア語も翻訳対象とするとのことであった。最近10年間で、コンピュータ翻訳技術の水準が急速に高まっていることを前提としての協定であった。 
 欧州は多言語文化の典型的な地である。大事なことはそうした多言語であることから逃げずに、各国の言語をそのまま受け入れ、負担も受容し、そのうえで制度や実務を改革し、技術を活用していくことである。時間は要しても、その基本的戦略は適切なものと言えないだろうか。