知財論趣

電話発明に見る米国特許の裏側

筆者:弁理士 石井 正

不可解な電話発明の特許
 技術史研究を趣味の一つとしてきたので、発明の生まれる過程やそれが特許になるプロセスに関して多くの事例を調べて、カードにして、文章にすることを楽しんできた。そうした研究のなかで、いつも気になっていたのが、あの世紀の大発明、電話の発明と特許であった。なぜ、気になっていたのか。
 電話の発明と言えば、それは米国のアレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander G.Bell 1847-1922)によるものであるということは、これはほぼ常識となっている。どの本、どの百科事典にも電話の発明はA.G.ベルとされている。しかも興味深いことに、同じ電話の発明をエリシャ・グレイ(Elisha Gray 1835-1901)が考えていて、その特許出願をベルによる出願と同日にしたこと、しかしグレイは米国特許庁への特許出願がベルに比べて、わずか2時間遅れであったため、ベルに特許が与えられたと説明されている。だから発明をした場合、急いで特許出願をしなければいけない、という教訓話にまでなることが多い。
 だがこの話は少しおかしいと思わないだろうか。

先発明主義の米国で
 米国の特許制度はそもそも先発明主義である。米国では、仮に同じ内容の発明が同じような時期に出願されてきた場合、その発明の時点が重視される。その発明の時点といっても発明の着想なのか、実施化の時点なのか、さまざまな要素を考えなければならないわけであるが、ともかく単純に出願の先後で決めるわけではない。
 ベルの電話発明の特許出願は、1876年2月14日であった。当時の米国の特許制度も現在のそれと大きな差異はない。だから特許庁の出願窓口では、その日の出願書類は積み上げていき、夕方にその日の出願の分を出願原簿に記帳していくという方式であった。
 そうであるとすれば、ベルの電話発明特許出願が、グレイのそれよりも2時間早かったというのは、どうして説明するのだろうか。しかも当時の証拠や証言からすると出願された書類は単純に積み上げていくやり方をしたため、受付番号は積み上げた上の方から付与していくこととなり、その日の出願受付の遅いものほど番号が若いものとなる。他の証拠も併せるとどうやらグレイの出願はむしろベルの出願よりも早かったとみられている。
 ともかく特許庁への出願の先後よりも、発明の先後が重視されることは、米国においては昔も今も変わらない。だから同じ内容の発明が前後して出願されてきた時には、インターフェアランス手続により、それぞれの発明の先後を明らかにしていくこととなる。ところがベルの電話発明では、そうしたことが行なわれず、ただベルの電話の特許出願が2時間早かったということのみが伝わり、それが広く理解されているわけである。インターフェアランスの手続が行なわれず、ただグレイの出願が遅かったからベルの発明が特許になったとだけ、説明される。

ベルの電話特許
 それではベルの電話特許(米国特許174465号)はどのような内容であるか。もちろん特許明細書が公報として発行されているから、それを読むことで理解できる。読むとその内容のほとんどは電信線に複数の電信を異なる周波数で多重にして通信するいわゆる多重電信に関するものである。多重電信と電話は、もともとまったく異なるものなのだが、その多重電信の発明の詳細な説明の最後にわずかに電話の発明についての詳細な説明が付け加えられているに過ぎない。もちろん図面の多く、すなわち第1図から第6図は多重電信の技術を説明するものであって、最後の第7図で突然、電話らしき図面が登場する。もちろんクレームも同じように、第1クレームから第4クレームまでは多重電信の発明がクレームされてあって、そこに電話に関する第5クレームが付け加わるというものだ。
 どうやらベルは、多重電信の発明に、突然、電話の発明を付け加えたのではないかと想像することもできる。多重電信と電話はまったく異なる技術なのだから、そもそも複数の発明を一つの特許出願で扱浮ことができるのか、というような議論も出てきそうであるが、それは別にしても、ともかくひどく違和感を感じる発明であり、特許である。

謎は解明されるか
 長い間、疑問に思っていたことが、ある一冊の本によって氷解した。それはSeth Shulmanの”The Telephone Gambit: Chasing Alexander Graham Bell’s Secret”、2008 (邦訳はセス・シュルマン、吉田三知世訳 「グラハム・ベル 空白の12日間の謎」 日経BP社 2010年)である。ジャーナリストのシュルマンが1年間、MITの研究所でベルの電話の発明の過程を詳細に研究した結果である。シュルマンはこれまで研究成果をすべて整理し、把握し直してベルの電話発明と特許の真実にアプローチしていった。
 そこで見出されたことは驚くべきものと言ってよい。ベルとグレイのそれぞれの電話の発明が2月14日に特許出願されたことは残された文書等から明らかであった。それを受け付けた特許庁は、2月19日に審査官名でインターフェアランスの通知をした。ベルとグレイの電話発明のどちらが先に発明されたものかを決めるためのものだ。ところが驚くべきことに、インターフェアランス通知の7日後の26日に審査官はベルに面接し、その翌月3月7日に突然、ベルの電話発明を特許してしまったのだ。当時の米国特許庁長官代理エリス・スピアーの審査官に対する指示の結果であった。
 インターフェアランス通知後の26日にベルは審査官に面接しているが、どうも残された文書から判断すると、その時にグレイの特許出願文書を読む機会を与えられているようであった。後に裁判でベルはその事実をややあいまいに肯定している。
 問題は、ベルの特許出願の明細書と図面があるタイミングで修正されたようなのである。正確には修正というよりは追加というべき手書きのメモが明細書の左側の余白に書き込んである。その追加のメモの内容はまさに多重電信の技術に電話の技術を付け加えるものであって、人の声に応じて電気抵抗が変化する点、それに応じて電流が変化する点が書き込まれてあった。これはどの時点で書き込まれたものであるか。後の裁判ではベルは特許出願の直前であったと証言している。

19世紀末の頃のワシントンの状況
 当時、ベルの電話発明とグレイの電話発明の特許争いはワシントンあるいは全米を揺るがす大事件であった。議会も調査を行い、報告書も提出された。この報告書では特許庁長官代理のエリス・スピアーの指示は不適切であるとしている。ところがこの調査に関わった議員数名がベルの電話事業独占体制が崩れた場合に金銭的利益を得る立場にあることが判明して、この報告書の位置づけが極端に弱くなっていった経緯があった。
 しかしこの議会調査報告書、その後の裁判で提出されたあらゆる資料、またテイラー等の調査結果を総合すると、ベルの立場はかなり弱い、あるいは疑念を抱かれても当然ともいえる状況であった。これまでに明らかになったことはどういうことか。
 ベルの後援者ガーディナー・ハバードは、ベルの妻となる恋人メイベルの父であったが、彼は弁護士、実業家であって、ワシントンにおける最有力者の一人であった。彼の父は米国最高裁判所の判事もしていて、ワシントンでは著名な一家であった。当時、ワシントンは電信独占事業の是非をめぐって政争激しく、政治と経済の争いの渦中にあり、ハバードはウエスタン・ユニオンによる電信事業の独占体制を解体して、電信事業を国有化するべきとするハバード法案を提案したこともあった。そうした背景のなか、ハバードはベルから多重電信の発明を聞いていた。
 インターフェアランス通知を受けて弁護士ガーディナー・ハバードは特許庁幹部と面談した。インターフェアランスの相手方であるグレイの特許出願の内容を理解する必要があるから、ベルがその内容を読む機会を作るべきであると主張したようである。本来、それは違法であった。それにもかかわらず、ベルはグレイの特許出願明細書を読む機会を与えられた。その結果、高い確率でベルは彼の明細書を修正・追加したものとみられる。インターフェアランスの通知後、長官代理スピアーはその通知を取消し、ベルの出願が早いのだからベルの発明だけを審査対象とするように担当者に命じた。これを受けて、翌月、ベルの電話発明が特許されたのであった。
 アレクサンダー・グラハム・ベルは信仰心溢れるまじめな性格の人物であった。その後の長い特許の争いの過程において、常に自らの行動について悔やむところがあった。しかしすでに電話の発明と特許の問題は、電信のウエスタン・ユニオンと電話のAT&Tのワシントンの政治と経済を巻き込んだ大きな争いとなっていた。ベルはただ黙って見守るしかなかったのであろう。
 19世紀末の米国、ワシントンにおける政治と経済の争いと電話の特許の問題が重なった事件であった。