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UPC中央部がUPC締約国17ヶ国における特許無効を宣言した欧州特許に対する異議申立を却下したEPO異議部の決定

 2024年7月16日に統一特許裁判所(UPC)の中央部は、UPC協定の17の締約国(批准国)すべてにおいて、進歩性の欠如を理由として特許を無効と宣言する取消判決を下しました[i]。一方で当該特許については、UPCでの取消訴訟と並行して、取消訴訟の原告によって欧州特許庁(EPO)に対して異議申立も提起されていました。2025年5月21日に、EPO異議部は、特許無効を宣言したUPC中央部とは異なる手法で進歩性の判断をし、その結果、進歩性有りとして異議申立を却下する決定を下しました[ii]。興味深いことにUPCの判決とEPOの異議決定とは異なる判断を下しましたが、それぞれ上級審に上訴されており、今後の上級審の判断が注目されます。

 

1.事件の経緯

(1)本件特許の成立

 Amgen, Inc.(以下、「Amgen社」)は、欧州特許第3 666 797号(以下、「本件特許」)の特許権者です。本件特許は2023年5月17日にEPOにより特許付与の公告がなされ、UPCの全締約国17ヶ国で有効化されました。

(2)UPC中央部への取消訴訟の提起

 UPC設立の当日である2023年6月1日に、Sanofi-Aventis Deutschland GmbH, Sanofi-Aventis Groupe, およびSanofi Winthrop Industrie S.A.の3社(以下、集合的に「Sanofi社」)は、本件特許に対する取消訴訟をUPCの中央部(そのミュンヘン支部)に提起しました。

(3)UPCミュンヘン地方部への侵害訴訟の提起

 同じく2023年6月1日に、本件特許の特許権者であり取消訴訟の被告でもあるAmgen社は、取消訴訟の原告であるSanofi社およびそのパートナー企業であるRegeneron Pharmaceuticals, Inc.(以下、「Regeneron社」)に対して、本件特許に関する侵害訴訟をUPCのミュンヘン地方部に提起しました。

(4)侵害訴訟における取消反訴の提起

 このミュンヘン地方部での侵害訴訟において2023年11月24日に、特許の取消しを求める反訴が、取消訴訟の原告であるSanofi社ではなく侵害訴訟の一方の被告であるRegeneron社によって提起されました。

(5)取消反訴のUPC中央部への付託

 特許取消の反訴が提起されたミュンヘン地方部は、Regeneron社が提起した反訴をUPCの中央部に付託しました。これにより、中央部は、Sanofi社が提起した取消訴訟とRegeneron社が提起した反訴とを一括して処理することになりました。

(6)EPOでの異議申立

 取消訴訟の原告3社のうちのSanofi-Aventis Deutschland GmbHによって2023年11月10日に、Regeneron社によって2024年2月19日に、本件特許に対する異議申立がEPOに提起されました。

(7)UPC中央部の判決

 2024年7月16日に、UPCの中央部は、進歩性の欠如を理由に本件特許を無効とする取消判決を下しました。

(8)EPO異議部の決定

 2025年5月21日に、EPOの異議部は、本件特許の発明は進歩性を有すると判断して、異議申立を却下する決定を下しました。

 

2.本件特許の説明

 中央部での取消訴訟の原告であるSanofi社と被告であるAmgen社はともに、バイオテクノロジーを用いて製造されたPCSK9阻害剤であるコレステロール低下抗体薬を販売しています。問題となっているAmgen社の本件特許は、タンパク質(PCSK9)に結合してそれをブロックし、低密度リポタンパク質コレステロールを低下させるモノクローナル抗体またはフラグメントに関するものです。本件特許のクレーム1は以下のように記載しています。

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   1. A monoclonal antibody or an antigen-binding fragment thereof for use in treating or preventing hypercholesterolemia or an atherosclerotic disease related to elevated serum cholesterol levels; or for use in reducing the risk of a recurrent cardiovascular event related to elevated serum cholesterol levels;

    wherein the monoclonal antibody or the antigen-binding fragment thereof binds to the catalytic domain of a PCSK9 protein of the amino acid sequence of SEQ ID NO: 1, and prevents or reduces the binding of PCSK9 to LDLR.

 (血清コレステロール値の上昇に関連する高コレステロール血症またはアテローム性動脈硬化性疾患の治療または予防に使用するための、または血清コレステロール値の上昇に関連する再発性心血管イベントのリスクを軽減するために使用するための、モノクローナル抗体またはその抗原結合フラグメントであって、

 ここで、モノクローナル抗体または抗原結合フラグメントは、配列番号1のアミノ酸配列のPCSK9タンパク質の触媒ドメインに結合し、PCSK9のLDLRへの結合を防止または軽減する、モノクローナル抗体または抗原結合フラグメント。)

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 本質的に、本件特許のクレーム1は、クレームされた技術的効果を達成するために使用されている抗体が機能的に定義された第二医療用途クレームです。この特許では、PCSK9がセリンプロテアーゼ、つまりタンパク質のペプチド結合を切断する酵素であり、低密度リポタンパク質受容体(LDLR)タンパク質のレベルの調節に関与していることが説明されています。LDLRは、肝細胞の表面で発現するタンパク質受容体であり、低密度リポタンパク質コレステロール(LDL-C)の除去に重要な役割を果たします。通常、細胞表面のLDLRは、LDL-Cに結合し、LDL-Cを細胞内に輸送して体内で使用できるように分解し、その後細胞にリサイクルされて、血流から細胞内にLDL-Cを輸送する役割を継続します。したがって、本件特許の目的は、PCSK9を標的にしてLDLR(およびLDL-C)のレベルを調節することにより、上記で定義された医療用途を提供することにあります。このような本件特許の目的は、UPCの中央部での取消訴訟においてクレーム1を解釈する前に中央部によって明確に強調されていました。

 

3.UPCおよびEPOによる進歩性の評価

(1)進歩性評価の出発点

 UPCの中央部は、進歩性の評価において、EPOの「課題-解決アプローチ(problem-solution approach)」に厳密には従わず、その代わりに、NanoString v 10x Genomics事件のUPC控訴審判決(UPC_CoA_335/2023)[iii]で用いられたアプローチを参照しました。

 EPOの「課題-解決アプローチ」とは、その審査ガイドライン[iv]において、進歩性の有無を客観的に判断するためのルールとして採用されたルールです。審査ガイドラインによると、このアプローチは次の3段階のステップから構成されます:

   (i) クレームされた発明に「最も近い先行技術」を特定する;

   (ii) 最も近い先行技術に基づいて、解決されるべき「客観的な技術的課題」を決定する;

   (iii) 上記の最も近い先行技術および客観的な技術的課題からスタートして、クレームされた発明が当業者にとって自明であったかを判断し、自明であれば進歩性はないものとする。

 今回、UPC中央部が採用したアプローチは、EPO異議部が採用した上記の課題-解決アプローチといくつかの類似点を持つものの、特に、上記のステップ(i)の「最も近い先行技術」ではなく「現実的な出発点」を選択する点、そしてステップ(ii)の「客観的な」技術的課題ではなく「根底にある」技術的課題を定式化する点において、いくつかの重要な相違点が存在します。

 このようなアプローチの相違点はあるものの、UPCの中央部およびEPOの異議部の双方は、Lagace et al. 2006(以下、「Lagace引例」)を進歩性評価の出発点であると考えました。このLagace引例の研究論文は、肝細胞におけるLDLRタンパク質レベルの調節における分泌型PCSK9の役割について説明しています。

 実際、UPC中央部およびEPO異議部の双方は、Lagace引例の同じ段落、すなわち「現在のデータが示唆するようにPCSK9が分泌因子として機能するならば、高コレステロール血症の治療において、LDLRとの相互作用を阻害する抗体の開発や血漿中での作用を阻害する阻害剤の開発など、その活性を中和する追加的なアプローチを検討することができる。」という記載に焦点を当てました。

 この教示に基づき、当業者は相互作用を阻害する抗体を開発するための「インセンティブ(UPC中央部判決の表現)」または「動機付け(EPO異議部決定の表現)」を有するであろうこと、および、抗体の開発には日常的な実験が必要とされるだけであろうこと、が判断されました。したがって、中央部の判決および異議部の決定の双方は、既知の標的に対する抗体の生成が当業者にとって日常的な作業とみなされる、抗体に関する確立されたEPOの判例法と整合しています。

 同様に、中央部および異議部の双方は、Lagace引例とクレームされた発明との相違点は、Lagace引例が高コレステロール血症の治療に使用するための、PCSK9とLDLRとの間の相互作用を阻害する抗体を開示していない点である、と考えました。このことは、争点を「成功の合理的期待(reasonable expectation of success」の問題に導いていくことになります。成功の合理的期待の問題とは、進歩性の判断において、引用発明から当該発明に至る道筋を試みることに成功の合理的期待があったのかが問われ、成功の合理的期待が認められるときには進歩性が否定される考え方です(米国特許商標庁やEPOで採用)。言い換えると、成功の合理的期待がなければ、進歩性は否定されない、ということになります。

(2)成功の合理的期待に対する異なるアプローチ

 Amgen社は、UPCでの取消訴訟およびEPOでの異議申立の双方において、本件特許発明の進歩性を主張するために、当業者が成功の合理的期待を欠くであろう理由について詳細な説明を行いました。

(ⅰ) UPC中央部のアプローチ

 これに対してUPC中央部は、以下のようにコメントして、成功の合理的期待に関する議論を開始しました。

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 中央部は、クレームされた主題に対するインセンティブが先行技術にありかつ次のステップが当業者にとって日常的な実験の範囲を超えないであろう本件の状況下において、クレームされた主題が進歩性を欠くという結論に至るには成功の合理的期待が必要であるか否かという問題については、未決定のままとすることができる

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 このコメントは、確立されたEPOの実務の下では、クレームされた治療効果がクレームの機能的な技術的特徴と考えられる第二医薬用途クレームにおいては驚くべきものと考えられます。というのは、EPOの実務では、特に、引例の組合せが成功するかどうかを予測することが難しいバイオテクノロジーの分野において発明が自明とされるためには、成功の合理的期待が示されることが必要とされてきたからです。EPO審判部の審決を整理した“Case Law of the Board of Appeal”の第1章(特許性)のD(進歩性)の7.1(成功の合理的期待)によりますと、特に、バイオテクノロジーの分野について以下のように記載されています[v]

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 特にバイオテクノロジーの分野におけるいくつかの決定において、審判部は、当該事例において、提案されたアプローチ、経路または方法を試すことが、成功の合理的な期待をもって当業者に自明であったかどうかを問うてきた(T 60/89、OJ 1992、268)。

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 実際、EPOの異議部は、上記の点について、UPC裁判所の判断に「強く反対する」とその異議決定において述べています。異議部はさらに、「UPC裁判所が示した理由付けは製品クレームには適用できるかもしれないが、異議部は、医薬用途クレームの場合、成功の合理的期待が重要な役割を果たすと考えている」とコメントしました。

 UPC中央部は、成功の合理的期待の要件については未決定のままとすることができると当初コメントしたにもかかわらず、その後、Amgen社が提示した主張がなぜ「不成立でなければならない」のかについてその理由付けを示しています。特に、中央部は、当業者が治療用抗体を開発し得たかについて「重大な疑義」を抱くであろうことをAmgen社が立証していないと判断しました。重大な疑義とは、「Lagace引例が示唆したように、相互作用を阻害するための抗体アプローチを追求することを当業者に思いとどまらせたであろうという性質の疑義」と定義されました。

 したがって、UPC中央部は、Amgen社が、当業者であればLagace引例を出発点とした場合に相互作用を阻害するための抗体アプローチを追求することを思いとどまったであろう重大な疑義を立証しなかったことから、抗体の開発について当業者が成功の合理的期待を有したであろうと理解し、クレームされた主題は進歩性を欠いていると考えました。

(ⅱ) EPO異議部のアプローチ

 これに対し、EPO異議部は次のように判示しました。

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 Lagace引例は、高コレステロール血症の治療においてPCSK9とLDLRとの相互作用を阻害する抗体を用いることを示唆しているものの、当該抗体を用いることが実際に治療効果を発揮するであろうという成功の合理的期待を当業者に与えるものではない。

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 さらに、Amgen社は、EPOでの手続において、UPCの手続でも引用された先行技術文献であるQian引例の図6dに基づき、成功の合理的期待の欠如に関する追加的な主張を提示しました。Amgen社は、この図は(生理学的に関連するレベルである500 ng/mlにおいて)PCSK9が細胞表面LDLRレベルに影響を与えない傾向を示していると主張しました。この証拠に基づき、異議部は、PCSK9とLDLRの結合を阻害または減少させる抗PCSK9抗体が治療効果を有し得ると当業者が合理的に予測することはできなかったであろうと判示しました。

 したがって、EPO異議部は、当業者が、Lagace引例単独に基づいても、またはLagace引例とQian引例との組み合わせに基づいても、成功の合理的期待を欠き、クレームされた発明が進歩性を有すると判断しました。

 

4.考察

 UPCおよびEPOにおけるこれらの手続は、EPOの異議部がUPC第一審裁判所による並行した判決に必ずしも影響されるわけではないことを示唆していますが、異議部がUPCの控訴裁判所の判決から、しかも公然と、異なる見解を示すかどうかはまだわかりません。

 UPCの中央部は、成功の合理的期待に関するアプローチにおいて、Amgen社が当業者であれば抗体開発を追求することを思いとどまったであろう重大な疑義を抱くことを立証しなかったことにより、当業者が成功の合理的期待を有することを示すものであろうと判断しました。このことは、引例に抗体の使用が示唆されているだけでは当該抗体の使用によって実際に治療効果を発揮するであろうという成功の合理的期待を当業者にもたらすものではないという、第二医薬用途クレームという面におけるEPOの確立された実務から逸脱しているように見受けられます。特に、中央部は今回の取消判決において、第二医薬用途クレームにおける成功の合理的期待のハードルを低く設定したものであり、立証責任の面からは、示唆された抗体アプローチの成功を当業者が予想していなかったであろうことを証明する責任を特許権者に課しているように見受けられます。これは、成功の合理的期待が重要な役割を果たし、特許権者は、示唆されたアプローチを成功の合理的期待をもって試みることが自明ではなかったことを証明しなければならない、第二医薬用途クレームに関するEPOの確立された実務とは対照的であると言えるかもしれません。

 したがって、UPCおよびEPOの手続は、進歩性などの問題の評価におけるわずかな変更でさえ、EPOの判例法とUPCの判例法との間に大きな相違をもたらす可能性があることを証明しています。

 

5.上訴について

 UPCの第一審判決およびEPOの異議決定はいずれも上訴されており、今後の上級審の判断が注目されます。まずUPC控訴裁判所の判決は今年(2025年)の夏に言い渡される見込みで、EPO審判部における口頭審理は既に2026年4月に予定されています。なお、侵害訴訟を担当するUPCミュンヘン地方部によりますと、取消判決に対するUPC控訴審の結果が出るまで侵害訴訟手続を一時停止することに当事者が合意しております。

 UPC控訴裁判所およびEPO審判部が、それぞれの判決および決定において、第二医薬用途クレームにおける成功の合理的期待に対する異なるアプローチに対処するのか否か、また対応するならどのように対処するかは興味深いことです。UPC控訴裁判所が第二医薬用途クレームの進歩性評価について明確な説明を提供すれば、UPCシステムの利用者は歓迎することでしょう。特に、第二医薬用途クレームにおける成功の合理的期待の評価基準が、UPCの裁判所では、確立されたEPO実務での基準よりも低くなるであろうとの何らかの示唆が、UPC控訴裁判所から示されるか注視する必要があります。

 

[情報元]

1.D Young & Co Patent Newsletter No.107 June 2025 “Differing decisions from the UPC and EPO: Sanofi v Amgen”
(https://www.dyoung.com/en/knowledgebank/articles/upc-epo-sanofi-amgen)

2.Rejection of the opposition (Art. 102(2) EPC) Patent No.:EP-B-3 666 797(異議決定理由原文)
https://register.epo.org/application?documentId=MAW45FD01M44X0V&number=EP19207796&lng=en&npl=false

3.UPC_CFI_230/2023
“DECISION of the Court of First Instance of the Unified Patent Court Central division (Section Munich) delivered on 16 July 2024 concerning EP 3 666 797 B1”(UPC中央部判決原文)
(https://www.unified-patent-court.org/sites/default/files/files/api_order/7BD3093D60CBD34C06940FCA0C598CEE_en.pdf)

[担当]深見特許事務所 堀井 豊  


[i] UPCでの取消訴訟の詳細につきましては、弊所HPの「国・地域別IP情報」の「欧州」における2024年10月16日付け配信の「進歩性の欠如を理由にUPC締約国17ヶ国での特許無効を宣言したUPC中央部の初めての判決」(https://www.fukamipat.gr.jp/region_ip/12424/)において取り上げておりますのでご参照ください。

[ii] 今回のEPC異議部での審理の経過については、EPOのHPの下記URLから閲覧することが可能です(https://register.epo.org/application?number=EP19207796&lng=en&tab=doclist)。

[iii] この控訴審判決における進歩性の判断については、2024年5月8日付けの弊所HPの記事「UPC控訴裁判所による最初の実体的判決」をご参照ください(https://www.fukamipat.gr.jp/region_ip/11384/)。

[iv] 審査ガイドラインのパートG、チャプターⅦ-5(https://www.epo.org/en/legal/guidelines-epc/2025/g_vii_5.html

[v] https://www.epo.org/en/legal/case-law/2025/clr_i_d_7_1.html