UPC判決「TCL vs. コーニング事件」および「WIRPLAST vs. VILPE事件」で示された進歩性判断における「現実的な出発点」
2025年11月に欧州統一特許裁判所(UPC)の控訴審によって確立された進歩性評価の基準「現実的な出発点(realistic starting point)」について、ミュンヘン中央部の最新2判決(「TCL EUROPE SAS vs. Corning Incorporated」(TCL EUROPE SAS事件)および「WIRPLAST WIRPLAST – Więcek Spółka Jawna vs. VILPE Oy」(WIRPLAST事件))が重要な指針を示しました。UPCは、明示的な示唆がない限り先行技術内の特定の「実施例」をピンポイントで出発点とすることに厳格な姿勢を示しており、あらゆる実施例を出発点とし得る欧州特許庁(EPO)の実務とは明確な乖離が生じています。
本記事では、この新たなアプローチの全容と、欧州における特許無効化のハードルの変化、さらにはUPCとEPOで進歩性判断が矛盾するリスクなど今後の特許実務に与える影響について解説します。
1.UPCの控訴審によって確立された進歩性評価の基準「現実的な出発点」
2025年11月のUPC控訴審(CoA)の2つの判決(「Amgen vs. Sanofi事件」および「Meril vs. Edwards事件」)によって確立された「現実的な出発点」とは、進歩性を検討する際の起点として採用すべき先行技術の要件・選定基準のことです。
UPCは「現実的な出発点」を以下のように定義しています。
「関連する期日において客観的な課題を解決しようとする当業者にとって、その教示が興味を引くものであれば、その出発点は現実的である。」
例えば、関連する先行技術がクレームされた発明に類似する複数の特徴を開示している場合や、同じまたは類似の根本的な課題に対処している場合に該当する。
現実的な出発点は複数存在し得り、クレームされた発明はそれらすべてを出発点として進歩性を有していなければならない。
しかしながら、これらの判決では、「現実的な出発点」という概念の広がり(適用範囲や限界)についてはまだ検証・判断されていませんでした。
すなわち、「先行技術のどこまでを特定の出発点として切り取れるか」(例えば、先行技術文献内の特定の「実施例」をピンポイントで選べるかどうか)といった詳細な実務上の解釈は、この2つの事件の時点では踏み込んで判断されておらず、その後のミュンヘン中央部による2つの第一審判決(TCL EUROPE SAS事件およびWIRPLAST事件)によって初めて明らかにされることとなりました。
2.TCL EUROPE SAS事件
(1)対象特許
Corningの対象特許(EP3296274)は、ダウンドロー法(溶融ガラスを下方に引き引き伸ばして成形するガラス製造法)による無アルカリガラスシート(ディスプレイ基板等に用いられるアルカリ金属を含まないガラス)の製造方法に関するものでした。同製造プロセスは、とりわけ、ガラスが酸化物換算(基準)で特定のモルパーセントの特定化合物を含有するようにバッチ原料(ガラスを調合・溶融するための混合調合原料)を清澄する工程(ガラス溶融時に発生する気泡を除去・消滅させる工程)を含んでいます。特徴的な点として、この清澄工程はヒ素もアンチモンも使用せずに行われます。特許明細書の記載によれば、これにより得られる無アルカリガラスシートは、フラットパネルディスプレイ装置の基板としての使用に適した望ましい物理的および化学的特性を備えていました。
(2)主張
TCL EUROPE SASにより特許取消訴訟が提起されました。その訴訟は、複数の先行技術文献(D19、D20、D27)の特定の「実施例(Example)」をピンポイントで出発点として指定し、Corningの特許に対して、進歩性欠如の主張を行うものでした。TCL EUROPE SASは、具体的に、D19(米国特許出願公開公報(US 2002/0082158 A1)の実施例27)、D20(JP 2004-189535 A)の実施例15および10)、D27(JP 2001-348247 A)の実施例10)をピンポイントで出発点として指定しました。
(3)裁判所の判断
裁判所は、D19およびD20はいずれも無アルカリガラスに関するものであったため、双方を「現実的な出発点」と判断しました。D19は、ダウンドロー法による製造に適し、フラットパネルディスプレイ装置用基板として望ましい物理的・化学的特性を示すアルミノシリケートガラスを開示しており、D20は、良好な耐エッチング性、低熱収縮性、および高い歪点(本件特許と類似)が要求されるディスプレイ製造用の無アルカリガラスの使用に関するものでした。さらに、D20の一般的記載においては、複数の好適な方法の1つとしてではあるものの、ガラスを製造するための適切な方法としてダウンドロー法が開示されていることが認定されました。したがって、裁判所は、当業者はD19およびD20の双方に対して「興味を持った(interested)」であろうと判示しました。
しかしながら、裁判所は、D27が当業者にとって「現実的な出発点」であるか否かについては疑問があると考えました。D27は、アルカリ金属酸化物を実質的に含まず、高い歪点、高いヤング率、低密度、および低膨張係数を有し、かつBHF耐性および耐酸性に優れたディスプレイや写真(用途)に関するものに過ぎないと指摘されました。さらに、D27は好ましい製造プロセスとして、ダウンドロー法ではなくフロート法(float method)に着目していました。裁判所はまた、D27には「ダウンドロー法に要求される高粘度」についての記載もないと指摘しました。
特筆すべき点として、裁判所は、TCL EUROPE SASが出発点となる各先行技術文献中の「特定の実施例」に依拠している姿勢に対して否定的な見解を示しました。この結果、裁判所はD19の実施例27およびD20の実施例15は「現実的な出発点」ではないとの結論に至りました。例えば、D19の実施例27には0.3モルパーセントの三酸化アンチモンが含まれていましたが、一方で同文献の実施例22~25にはヒ素もアンチモンのいずれも含まれていませんでした。
ミュンヘン中央部は、本決定の判決要旨(headnotes)において、現実的な出発点を特定するための同部のアプローチを以下のように要約しました。
「現実的な出発点とは、通常、先行技術の開示全体(全体の開示内容)を指す。開示自体の中に(または技術常識に基づき)そうすべき具体的な理由や示唆が存在しないにもかかわらず、構成要素の観点から請求項に係る主題にたまたま『最も近い』という理由だけで、特定の組成の実施例を『出発点』として選定することは、その選定自体にすでに後知恵(hindsight)が含まれているというリスクを伴う。」
この判断は、個々の実施態様(embodiment)が進歩性の評価において同様に出発点となり得る先行技術の一要素を構成する、とみなす欧州特許庁(EPO)における確立された判例法理(審判所判例集(CLBA)I.D.3.1[T 1654/22を引用]、およびI.D.3.7.1[T 787/17を引用])とは対照的であるように見受けられます。
3.WIRPLAST事件
(1)対象特許
VILPE Oyの特許(EP2649380)は、建物の屋根を貫通して延びる換気ダクトの排気管であって、とりわけハット(笠)を備え、そのハットの上部には雨水が換気ダクト内に侵入するのを防ぐ円錐状カップが設けられており、さらにハット内の円錐状カップの頂部に丸型水準器(円形気泡水準器)が一体化されて備えられている、排気換気パイプに関するものでした。
(2)主張
WIRPLASTにより特許取消訴訟が提起され、その中には、D1(DE10118226C1)を出発点とし、これを技術常識、またはD2(JP2002106855A)、D3(US20070167130A1)、若しくはD4(CN2255012Y)のいずれかと組み合わせて、VILPE Oyの特許に対する進歩性欠如の主張が含まれていました。
D1は、とりわけ上部円錐状カバーを備えるファンハウジング(筐体)を有するルーフファン(屋根用ファン)に関するものでした。D1の発明の目的は、防雨性および防雪性を備え、風の影響から保護されたルーフファンを提供することにありました。
特許権者/被告(VILPE Oy)は、D1が「現実的な出発点」であることを争いませんでした。その代わり、D1のルーフファンはベースプレート(設置基板)を用いて屋根の上に設置されるものであるのに対し、クレームに係る装置は屋根を貫通して延びるパイプを備えていることから、D1のルーフファンは本件特許発明とは本質的に異なる発明であると主張しました。
(3)裁判所の判断
裁判所は特許権者に同意しました。さらに裁判所は、D1は全体として当業者の興味の対象となったであろうし、「現実的な出発点」を構成すると言及しました。その理由は、D1が本件特許と同一の技術分野(「換気装置」)に関するものであり、かつクレームされた発明と共通する複数の技術的特徴(構成要件)を有していたためです。
ミュンヘン中央部は、本決定の判決要旨(headnotes)において、そのアプローチを以下のように要約しました。
「本件特許と同一の技術分野にある特定の先行技術文献が『現実的な出発点』とみなされる場合であっても、それが本件特許の発明とは異なる種類の装置に関するものであり、かつ異なる課題を解決するものであるという事実は、進歩性の評価(判断)において重要な意味を持ち得る(関連し得る)。」
4.コメント
EPO(欧州特許庁)における手続において、「最も近い先行技術(closest prior art)文献」とは、通常、以下の条件を満たす文献を指します(審査ガイドライン G-VII, 5.1)。
・発明と同一の目的のための主題を開示している、
・発明と同一の課題(目標)の達成を目指している、および/または、
・発明と共通する最も関連性の高い技術的特徴(構成要件)を有している。
審判所判例集(CLBA)はまた、特定の実施態様が課題解決アプローチにおける出発点として適格とされる(認められる)ために、先行技術内にその特定の実施態様への示唆(pointer)が含まれている必要はなく、また異議申立人(無効主張側)が「なぜ当業者がその特定の実施態様を選択したのか」を正当化(説明)する必要もない、ということも示しています。そうではなく、あらゆる実施態様が、等しく出発点となり得る先行技術の一構成要素をなすものとされています(審判所判例集(CLBA)I.D.3.1[T 1654/22を引用]、およびI.D.3.7.1[T 787/17を引用])。
「現実的な出発点(realistic starting point)」対「最も近い先行技術(closest prior art)」に関しては数多くの解説・議論がなされてきましたが、取り上げられたミュンヘン中央部の決定において特筆すべき(興味深い)点は、文献自体の中に特定の実施例への「示唆(pointer)」が存在しない限り、その実施例を出発点とすることに対してUPCが消極的な姿勢(難色)を示していることです。
このようなアプローチは、進歩性の評価(判断)において、欧州特許庁(EPO)の実務からの更なる乖離を示すものと言えます。
ある意味では、UPCによる進歩性の評価は、先行技術が発明と同一の技術分野に属し、かつ複数の共通する技術的特徴を有している限り、「現実的な出発点」の選定においてより広範(柔軟)なアプローチを認めるものと言えます。しかしながら、EPOとは異なり、(先行技術文献内の示唆や、当業者がそうしたであろうという合理的な正当化理由が存在しない場合)当事者が「特定の実施態様(実施例)」を出発点として主張することは困難になる可能性があります。
その結果、発明が自明(容易)であるとUPC第一審部門を納得させるための進歩性欠如の主張においては、EPOの異議部や審判部を納得させる場合と比較して、先行技術文献の中により顕著な「道標(明確な示唆・指針)」が存在することが要求される可能性があります。
G 1/24の理由16で指摘されているように、EPOが欧州レベル(例えばUPCとの間など)で実務の調和(統一)を図りたいと望んでいる旨を一貫して示していることを踏まえると、UPCにおける更なる乖離に対して、EPO審判部(Boards of Appeal)が今後どのように対応していくかは非常に興味深い点です。両方の制度を利用する当事者にとって、これら2つの決定から導き出される重要な教訓(示唆)は、これら2つの管轄機関(EPOとUPC)が進歩性に関して互いに矛盾する決定を下す可能性(余地)がさらに広がったということです。
[担当]深見特許事務所 赤木 信行
[情報元]
1.D Young & Co. IP Cases & Articles “UPC cases TCL v Corning and WIRPLAST v VILPE: realistic starting point for inventive step”
https://www.dyoung.com/en/knowledgebank/articles/upc-tcl-corning-wirplast-vilpe-inventive-step
2.Unified Patent Court 判決文: TCL Europe SAS (claimant) vs. Corning Incorporated (defendant)
3.Unified Patent Court 判決文: WIRPLAST – Więcek Spółka Jawna (claimant) vs. VILPE Oy (defendant)
4.Unified Patent Court 判決文: Amgen Inc vs. Sanofi-Aventis Deutschland GmbH, Sanofi-Aventis Groupe and Sanofi Winthrop Industrie SA
https://www.unifiedpatentcourt.org/en/node/159788
5.Unified Patent Court 判決文: Meril vs. Edwards Lifesciences Corporation
https://www.unifiedpatentcourt.org/en/node/159797
6.D Young & Co. IP Cases & Articles “Inventive step at the UPC: Court of Appeal sets definitive test”, 10 December 2025.
https://www.dyoung.com/en/knowledgebank/articles/upc-inventive-step-appeal-definitive-test
7.EPO Guidelines for Examination, 5.1 Determination of the closest prior art
https://www.epo.org/en/legal/guidelines-epc/2026/g_vii_5_1.html
8.EPO Case Law of the Boards of Appeal, 3.1 Determination of closest prior art in general
https://www.epo.org/en/legal/case-law/2025/clr_i_d_3_1.html
9.EPO Case Law of the Boards of Appeal, 3.7.1 General
https://www.epo.org/en/legal/case-law/2025/clr_i_d_3_7_1.html

